2013年10月22日火曜日

音楽理論と鳥の声

彼[スティーヴン・フェルド]は、パプアニューギニアのカルリの人々が、旋律を滝で、旋律の終わる音(終止音)を滝壺で表していることに気がついてから、「見えない理論」がここでもきわめて精緻な形で存在していて、人々が滝や木の幹や枝、あるいは、鳥の声などを使って音楽理論について語り合っていることを知るようになったのである。(徳丸吉彦、蒲生郷昭「見えない理論−−音楽の理論・楽器・身体」、括弧[]は筆者による補足。)
  ここで語られている「見えない理論」とは、例えば和声学や対位法のような理論を含む、文字によって記されているような「見える音楽理論」に対し、無文字文化などでの音楽教育において、下手な演奏をしたり、(その文化において)「変な音」を使った演奏をしたりすると、教師からその都度、「時には言語によって、また、時には、睨んだり、怒ったり、ぶったり、という非言語的な手段」によって、「正しい音楽」へと是正されることによって表現されるような音楽理論である。そうした理論はまったく述べられることがなかったり、あるいは独自の用語で構成されていたりするのではない。まさに「鳥の声」のような、ごく一般的な言葉によって語られたりする。
 言葉というのは面白いもので、私たちの文化にあっても、鳥は歌う。まさに音楽ということがらを通じて、私たちは知らない文化の人々と考えを同じくする。ここになんとなく面白さを感じた。
目を醒ませ、フリードリーケよ
夜を追い払い、
おまえの瞳の輝きは、
朝へと変えてゆく
鳥たちの甘やかなささやきは
愛しき人よ、おまえを呼んでいる ...

 鳥と音楽の繋がりというのは、想像以上に深いものなのかもしれない。鳥は実際に「歌い」、そして私たちによって歌われる。音楽を離れて、詩の世界に至っても、鳥の一声は詩的世界に一つの音楽的情景を与える。しかし、私たちが鳥の声を「音楽」というとき、そこには私たちがほとんど意識しないまでに入り込んだ比喩があるのだろう。私たちはそのままの意味で、鳥の声を「音楽」だとは思っていないだろうし、思うことができないはずだ。とはいえ、これもはじめに引用した論文によれば、あるいは、私たちが鳥の「歌」に秘められた「見えない理論」に精通していないことによるのかもしれない。

 論文は、徳丸吉彦『音楽とはなにか −− 理論と現場の間から』(2008, 岩波書店)より。詩は Johann Wolfgang von Goethe, "Erwache, Friedrike" より引用。筆者による拙い訳で申し訳ありません。

2013年10月14日月曜日

感情および情念に関して、思うところ

 さいきんは音楽哲学的な話題が多かったので、一度もともとの関心に振り返ってみようと思う。その対象は「感情」と呼ばれているものである。そもそも、私は感情の外延を記述するのに、一般に感情によって作られ得ると考えることのできそうな芸術に目を向け、そこからさらに振り返って感情を考えることができないものか、と思い芸術、とくに音楽について考えてみようと思ったのではあるが。

 いわゆる「感情」や「情念」というものに関してであるが、はたしてそれらは一体どこからどこまでがそう呼ばれるものなのだろうか。「悲しい」は情念であると言われても、およそ誰も疑うことはないであろうが、「つらい」や「痛い」は情念に含まれるのか、およそ生起する形容詞的なものは情念に含まれうるのだろうか、等々の疑問は生まれて止むことはない。感情の外延や内包を正しく定めることも一つの大きな問題となるのである。以下では情念の諸性質を見てみることにする。
 情念はかならず言語化されている。私たちが情念を捉える時、かならずそれは言葉によって記述される形であらわれる。逆に、言語化されていないものは情念とはいえない(私は言語化以前のものを感情として区別している)。言語化されている以上、情念は有限の種類しかなさそうに思われる。通常使われ得る情念語彙は、私たちの日常生活における語彙の集合より大きい集合となることは考えづらく、日常生活における語彙も有限であることからもそれが言える。これに関して、デカルトは『情念論』において、情念を全て数え上げていると言明していることなどからも、(権威主義的ではあるが)証明されていると考えられよう。

 さて、情念についてすこし詳しく見ていくことにしよう。上では、情念は言語化されていると述べられたが、情念は「感情が言語によって表現されたもの」として一応の定義付けができるだろう。私達はふだん、「なんとも言いがたい情念」と呼ばれるものを抱くことがある。これは確かに「なんとも言いがたい」という形をもって表現されたものであるから情念であるが、たほうそれは情念以前のものでもある。それは完全に輪郭付けられていない情念であって、うまく情念語彙と対応付けられていない。情念でありながら、完全な情念ではなく、欠落した情念である。こうした欠落が起こりうるのは、情念が情念それ自身として心的実在であるからではなく、なんらかの基礎をもつ、表現であるからであろう。その基礎が感情であって、それは言語的規定を一切欠いている。すなわち、あえて循環的な定義をするならば、「感情とは、言語による表現が与えられることによって情念化する以前の、生の素材である」。
 何らかの外的原因によって感情は、私たちの言語の光が届かない海底のうちで生まれ、やがてその発生の衝撃が波を作り、海面において情念として把握されるに至る。比喩を用いればこのようになるであろうが、およそそうした次第である。この比喩における波が、感情から情念への写像のようなものであり、同時に私たちの認識能力であるといえる。
 感情から情念に至るには、感情が「何であるか」を知る必要がある。感情は言語的規定を欠いているので、それが「何であるか」を明示的に知りうることは不可能である。たほう感情は私たちの心のうちで、なんらかの仕方で私たちの思考や行動に影響を及ぼす。主題的な形で私たちに影響を及ぼすのではなく、私たちにおいても知らず知らずのうちに、根本において感情を暗黙のうちで了解している。その暗黙の了解の様式が、私たちに情念として知られるのである。輪郭付けられていない情念は、その様式が混乱した形で、あるいは複数の様式が入り乱れている場合に現れうるのではないだろうか。

 感情から情念に至る際に混乱があるのは、なにも認識能力の波が途中の障害物に邪魔されて乱されることばかりに原因があるのではないかもしれない。感情から情念への対応が必ずしも一対一では無い、ということがその原因ではないと私は考える。感情を連続的な点の集合として考え、情念を場のようなものだと考える。つまり、近接した感情は同一の、あるは近接した情念として与えられる。色のグラデーションが与えられた実数の平面のように考えれば良いかもしれない。その際に、情念と情念の間、例えば赤と黄色の間にあるオレンジの部分、そこに私たちの感情が落ち込んだ時、混乱が生じて輪郭を失った情念が現れるのではないだろうか。

2013年10月8日火曜日

規範と実演としての音楽

 音楽作品はいったいどこにあるのか、という問いについて、少し前に話し合う機会があったので、それから考えたことを、自明な事柄が多いようにも思えるが、少しまとめておこうと思う。

 音楽作品は以下の二つの様態を考えることができる。すなわち、一方は規範として、他方は実演としてである。どちらか一方のみを音楽作品と断言してしまうことには困難が付き纏うであろう。

 これらの関係を簡単に述べるとすれば、後者は前者に依存、あるいは前者に従う形で与えられている。おそらく、規範は実演よりも抽象度の高い音楽作品と言えるだろう。とはいえ、規範においては例えば音楽作品中の個々の音の長さなどは具体的に指示されておらず、程度の差こそあれ、演奏者によって実際に演奏されたそれぞれの音楽は規範的であると言えるかもしれない。そういう意味で実演が規範に従うという強い形ではなく、規範と実演が寄り添っている、互いに浸透しあっているとも考えられる。
 とはいえ、個々の実演が規範に寄り添うその仕方には、抽象性のジャンプが潜んでいる。実演は全て、各演奏者によって為された解釈に基づいて行われる。厳密に言えばその時点で規範からの逸脱が見られるはずである。しかし、それらは解釈を含んだ上でも規範に従った演奏である。その意味で、ある音楽作品の個別的な演奏は全て、その作品の規範へ立ち戻ったうえで理解されている。規範から個々の実演への指示のみならず、ここの実演がその規範を同時に指示している。つまり、「任意の実演的音楽作品に対して、それが規範的音楽作品へと立ち戻ることが出来るならば、それらは同一の音楽作品である」 と主張できるのではないだろうか。