2014年2月9日日曜日

水の戯れ

 夜風は不思議とあたたかい。曇り空は薄墨色に明るい。吐息も曇ること無い穏やかな冬の夜だったが、道の脇にいくつも連なる骨だけの柳の木と、そのむこうを流れる小さな川から絶えず響く水の戯れる音が不気味だった。時折雲の切れ間から鈍い月の光が落ちてくる。私は慣れない底の少し高い靴でアスファルトをいつもより強く踏みしめる。この靴もしばらく履くことはないと思うとほんのすこしだけ嬉しい気がして、また底なしに悲しい。この恋というものはいったいどれだけ私を煩わせれば気が済むのだろうか。始めれば喉がつまり、終われば胸を締める。この靴がアスファルトを響かせた分だけ気持ちも揺らいだ。そしてまた私は靴を鳴らす。
 いくつかの家を通り過ぎる。笑い声を漏らす家もあれば、夜の底に沈んだ家もある。田舎道のまばらな家々はみんなそれぞれ異なっていた。そして次に通りかかった家で、私の靴音はしばらく止んだ。
 聴いたこともない音楽がその家から響いてくる。ピアノだ。それはピアノの旋律で、軽やかに踊りまわっているかと思いきや重々しく鍵盤を叩き鳴らす。目まぐるしく動き回る音に、私は聴き入ってしまった。どれくらいその家の前で立ち止まっていたかは分からない。私がそこにいた間、誰も通らなかったことは幸いだろう。ふと思い出したように私は携帯電話を取り出して、その演奏を録音しようとした。録音ボタンを押して三十秒ほどでその曲は終わってしまった。きちんと録音できただろうか、と確かめようとした時、その家の窓が開いて演奏していた人物と思わしき男がこちらを見ていた。はっきりとは見えなかったが、髪を伸ばした細身の男だった。不審に思われてはいけないと思い、私は携帯をしまい、すぐさま逃げ出す。ああ、この靴はなんて歩きにくい。少し恨めしく思い、私はまたアスファルトを鳴らす。それは先ほどまでの重苦しい音では無かった。早く帰って録音を聴いてみよう。そう思うと足取りは軽かった。

 家に帰って携帯電話を取り出し、胸を高鳴らせながら再生ボタンを押したところ、ノイズだらけでピアノの音は一切録音されていなかった。ときおり風がスピーカーを唸らすだけで、期待していたものは一切残されていなかった。姿を見られた以上、またあの家の前へと行くのはなんだか気が引ける。しかしもう一度出会いたいという気持ちは少しずつ高まっていった。名前も知らないのに。またあの苦手底の少し高い靴を履こうという気持ちにもなる。なんて煩わしい気持ちなのだろう。窓から夜空を眺めて、あの日の川の流れる音を思い出した。明日友達に相談してみよう。

 友人は案の定首を傾げた。そして笑った。それは私の、「なんか、こう、軽やかな感じがしながらも、ズーンって音がするピアノ曲なんだけど……。」という拙い説明のせいかもしれない。友人もピアノには詳しくないらしく、結局その曲に付けられたタイトルは分からなかった。あなたの説明だと、きっと誰にも伝わらないよ、という友人の言葉と、やはり彼女に笑われたことが、他の人に尋ねて回ることを控えさせた。この子になら笑われてもいいが、他の人達にさっきの説明をして笑われるのは少し恥ずかしい気がした。
 それから私はいろんなピアノの名曲と呼ばれるものをインターネット上で聴いてみたりした。ベートーヴェンやらショパンやら、一度は聴いたことのある作曲家の曲は殆ど調べつくした。私が聴いたのが曲の途中からであった、というのがまた探索を難航させたのだった。ふだんクラシック音楽など全く聴かない私だったので、友人が「恋の力ってすごいわねぇ」と冗談めかして言った。恋。そう、私は恋をしてしまったのだ。まったく恋多き女であるにも度がすぎるな、と自嘲した。男にフラれたその日に新たな恋に出会うなんて。
 二週間ほど、暇な時にはいろいろとクラシック音楽を聴いていた。私はショパンが好きかもしれない、と。名も知らぬ恋の相手がいながらも、すこし浮気をした気分でいた。久しぶりにあの川沿いの道を歩いた。あの男の人もきっと私など覚えていないだろう。その日は、私が恋に破れ、恋に落ちた日よりも天気は良かったが、とても冷え込む日だった。川の水はあの日よりも凍えた声で騒ぎ立てているような気がした。
 あの家の前に立った時、またピアノの音色が聞こえてきた。鋭い月明かりに照らされたその家は、どうやらピアノ教室のようだ。今日の演奏はやけにたどたどしい。今日は聴けないか、と諦めて帰ろうとした時だった。窓が開く音がして、私を呼ぶ声がする。それは、あの日私を見た人と同じ人だったように思えた。そして言う。「寒いでしょう、ピアノを聴くのでしたら中へどうぞ。」そう言ってその男は玄関まで降りてきた。それと一緒に元気な小学生くらいの男の子が、その男に別れの挨拶をしていた。また来週がんばるよ!と。男は来週頑張るだけじゃだめだ、毎日がんばれよ、といって励ましていた。男の子は母親に連れられて帰ってゆく。そして男は手招きする。

 部屋の中は暖かかった。男は思ったよりも年を取っていて、見た目には三十代の半ばであった。背が高く、髭はすこし伸びていたが、どこか清潔感のある雰囲気をしていた。ピアノを弾く指は長く、その左手の薬指には銀色の指輪が光っており、同じ指輪をした女性が、私にあたたかいお茶を持ってきてくれた。何曲か引き通してから、男は軽やかに BGM を作り出すように軽くピアノを弾きながら私に語りかけてきた。ピアノは好きなのかい、と。私は正直に、二週間ほど前からいろいろと聴くようになりました、と答えた。すると男はピアノを弾く手を止め、こっちを向く。二週間ほど前って言うと、たしか君が僕の家の前にいた頃だね、と笑いながら言う。私は顔が真っ赤になったように感じた。耳まで熱くなるくらいに恥ずかしかった。あ、あの、と弁解しようとしていたとき、男はまた白と黒だけの世界へ向き直り、あの時弾いてたのは確かこの曲だね、と言って、また音を紡ぎ始める。
 「なんか、こう、軽やかな感じがしながらも、ズーンって音がする」というだけでは言葉が足りないことはわかっていたが、それ以外にその曲をなんと形容しようか、私の数少ない語彙でそれをとらえることは難しい。それどころか、どんな語彙をもってしても、その曲は指の間をするするとすり抜けていってしまいそうな気がした。曲はそれほど長くは続かず、ほんの五分くらいで終わってしまった。私が拍手をすると、男は照れくさそうに頭を掻きながら言う。この曲はね、モーリス・ラヴェルが作曲した「水の戯れ」っていう曲なんだ。
 私はそこでようやくその曲のタイトルを知った。水の戯れ。探し求めていたものを見つけた喜びと、これまでの探求がそこで止まってしまった寂しさが同時にやってきた。水の戯れ。その甘美なメロディーと柔らかで軽やかな音の動きは水を模していたのか。すこし溢れてきそうな涙を私はあくびをしたふりをしてごまかした。それを見た男は時計を見遣り、そろそろ帰らないといけないね、と言う。私も首を縦に振る。男に従うままに玄関へ向かう。男は名を名乗り、ピアノが弾きたくなったらまたおいで、と言う。私はあまり慣れない底の少し高い靴を履いて、夫婦に挨拶をしてまた冷たい空気の元へと飛び出していった。アスファルトを踏みしめる音も軽やかに。

 名前も知ってしまった。けれど届かないこの恋を噛み締めて、私はすこし微笑んだ。帰ったらインターネットで聴いてみよう。明日 CD を借りに行こう。始まったばかりの、戯れる水への恋心を抱いて。アスファルトを軽く踏み鳴らして。友人にも話さなきゃいけない。「なんか、こう、軽やかな感じがしながらも、ズーンって音がする」曲のタイトルがわかって、届かない恋だったけど、無事実ったよ、と。

0 件のコメント:

コメントを投稿