2015年4月2日木曜日

春の憂鬱

 桜の咲くころ、ぬるい陽の光を浴びては、心の底から朗らかに笑うことのできない春のことを思う。春は、その陽気の裏に、いつだって憂鬱を湛えているのだ。そうして人々と付き合ってきたのだ。底から自分を見せることなく。なぜ私にはそれが分かったのか。それは、私は春と同類であるからである。私もいつだって憂鬱を心に秘めている。だからわかるのだ。春は、いつも悲しんでいる。どんな人でも心に憂鬱を抱いてはいよう。しかし、彼らが気づくのは、地が熱を持たず、静かに街灯が抗う夜、その冷えきった雨の底にはほんの僅かに漏れでたその憂鬱である。彼らは暗さに、寒さに、そしてまた自分自身の憂鬱を春というスクリーンに投影しているに過ぎない、そのなかで幾許かの春の憂鬱に気づくのである。春は、青空の中でこそ、最も憂鬱であるのである。しかし、人々がそれを許していない。春が憂鬱であることを許していないのである。彼らはいつでも陽気であることを望んでいる。花が咲き、ぬるく、明るい世界では、何者も陽気でなくてはならないのである。ああ、それならば。春なんて必要ないのだ。春はいつでも、ぼんやりとした憂鬱を、ことばにならない憂鬱を、その陽射のなかで提供してくれている。或いは人々は、その憂鬱に知らず知らずの内に苛まれているのかもしれない。それゆえに、陽気にならねば、躍起になっているのかもしれない。
 さきごろ止んだ雨に濡れた桜の花びらを一枚、木からちぎり取ってみれば、幸せそうな薄桃色。縦に割いては二つ。桜の木も割かれた花弁も、また春の一日。

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