2018年2月5日月曜日

書簡集 14

 八月三十日

 ぼろぼろと夏が崩れていく。たまに朝夕が涼しいこともある。それでもまだ暑いことのほうが多い。体調を崩していたりはしないだろうか。何かしら不調があるなら無理をしてはいけない。じっと考えてはいけない。歩くといい。普段しないことをするといい。街へ出て、知らない道を歩き、知らない店に入り、買ったこともないようなものを買うのがよい。鍋で何かを煮込んで、ていねいに灰汁を掬うのがよい。跪いて手のひらをあわせ指を組み絡めて目を瞑り神聖なことばを呟くのみが祈りではない。見たこともない古書店で本を買うことも、澄んだ美味しいスープを作ることもまた一種の祈りであるはずである。落ち着いて呼吸し、想うだけでよい。

 君はものに色があることを意識したことがあるだろうか。
 先日、大きな池のある公園を歩いていたときであった。池に育つほんの蓮の、ほんのいくつかが蕾み始めた折である。まだ紫陽花の青も爽やかであった。花の名に疎いせいもあり、よく知らないいくつもの花が綺麗に咲いていた。その時ふと、ものには色がある、ということを直観したのであった。
 何を当たり前のことを、と思うかもしれない。しかし、私にとっては重大な発見のように思われたのである。ものには色がある。proprium obiectum nostri visus est color なのであって、私たちはまず第一にものを視ているのではなく、色が視えているのだから、私たちがものを視ている以上、ものに色があるのは自明のことである。ものに色がなければ、私たちはなにも視てはいないことになろうからである。
 しかし、「ものには色がある」という事実と、「ものには色があることを『視ている』」という反省的な意識の段階とではまったく異なっているだろう。「ものには色があることを意識している」という状態は、ただ視ているのではなく、「視ていることを視ている」意識の状態であると言えるだろう。こうして至る「ものには色があると意識すること」という段階は、私にとって非常に面白い。

 「あるものが美しい」と考えるとき、私たちは何を美しいと考えているだろうか。視覚的に美しいと考える際、例えば、秩序・配列、形、色等々である。だが、この中でもとくに色が根源的な位置を占めている。というのも、秩序・配列、形等は、すべて色が視えていることによって私たちにとって視覚情報として与えられるからである。秩序・配列的な美しさ、形状的美しさは、つねにその背後に色の視えが潜んでいる。それゆえ、いくら秩序・配列的な美しさや形状的な美しさを積み重ねてみたとしても、色の美しさは決して生じない。だが、色の美しさは、秩序・配列、形状を適当に組み合わせることで、それらの美しさを生み出すことができる。この意味で、色の美しさというのはとりわけ根源的であると言ってもいいだろう。

 ……と筆が勢い付いてしまって下らぬことを書いてしまった。私にとって、ものに色があることに気がついたことは、大発見であったのだ。それと同時に、私はなんと色が好きであるのか、ということにも気がついた。色の美しさは、すぐに感性的な快楽を与えてくれる。

 日常は色を教えてくれない。私たちが日常の中で目にするものは、常にすでに、意識下で脱色されてしまっている。ものの色は意識にのぼらない。視えている以上、色があるのは当然なはずだというのに、ものに馴染み溶け込んでしまっている。日常において色は色として現れない。色はつねに形として、ものとしてのみ現れてくる。
 日常から逃れることは、色を教えてくれる。日常によって脱色されてしまった、色の氾濫した無色の世界を越え、色を色として認識し、色があるということを再確認する作業が必要である。花を視るにしても絵画を視るにしても、色を通じてものを視るのではなく、端的に色を、色そのものを視るという経験は、これもまたある種の祈りとして、救いを与えてくれるかもしれない。
 「色を視に行きたい」ということは、私自身の欲求を極めて精確に言い当てていることに気がついた感動を君にも分け与えたかったのだ。どうか頭の片隅にでも置いておいてもらえたら、と思う。

 それでは身体に気をつけて。美味しいものを食べて、これから死にゆく夏の暑さなどに負けぬように。

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