さいきんは音楽哲学的な話題が多かったので、一度もともとの関心に振り返ってみようと思う。その対象は「感情」と呼ばれているものである。そもそも、私は感情の外延を記述するのに、一般に感情によって作られ得ると考えることのできそうな芸術に目を向け、そこからさらに振り返って感情を考えることができないものか、と思い芸術、とくに音楽について考えてみようと思ったのではあるが。
いわゆる「感情」や「情念」というものに関してであるが、はたしてそれらは一体どこからどこまでがそう呼ばれるものなのだろうか。「悲しい」は情念であると言われても、およそ誰も疑うことはないであろうが、「つらい」や「痛い」は情念に含まれるのか、およそ生起する形容詞的なものは情念に含まれうるのだろうか、等々の疑問は生まれて止むことはない。感情の外延や内包を正しく定めることも一つの大きな問題となるのである。以下では情念の諸性質を見てみることにする。
情念はかならず言語化されている。私たちが情念を捉える時、かならずそれは言葉によって記述される形であらわれる。逆に、言語化されていないものは情念とはいえない(私は言語化以前のものを感情として区別している)。言語化されている以上、情念は有限の種類しかなさそうに思われる。通常使われ得る情念語彙は、私たちの日常生活における語彙の集合より大きい集合となることは考えづらく、日常生活における語彙も有限であることからもそれが言える。これに関して、デカルトは『情念論』において、情念を全て数え上げていると言明していることなどからも、(権威主義的ではあるが)証明されていると考えられよう。
さて、情念についてすこし詳しく見ていくことにしよう。上では、情念は言語化されていると述べられたが、情念は「感情が言語によって表現されたもの」として一応の定義付けができるだろう。私達はふだん、「なんとも言いがたい情念」と呼ばれるものを抱くことがある。これは確かに「なんとも言いがたい」という形をもって表現されたものであるから情念であるが、たほうそれは情念以前のものでもある。それは完全に輪郭付けられていない情念であって、うまく情念語彙と対応付けられていない。情念でありながら、完全な情念ではなく、欠落した情念である。こうした欠落が起こりうるのは、情念が情念それ自身として心的実在であるからではなく、なんらかの基礎をもつ、表現であるからであろう。その基礎が感情であって、それは言語的規定を一切欠いている。すなわち、あえて循環的な定義をするならば、「感情とは、言語による表現が与えられることによって情念化する以前の、生の素材である」。
何らかの外的原因によって感情は、私たちの言語の光が届かない海底のうちで生まれ、やがてその発生の衝撃が波を作り、海面において情念として把握されるに至る。比喩を用いればこのようになるであろうが、およそそうした次第である。この比喩における波が、感情から情念への写像のようなものであり、同時に私たちの認識能力であるといえる。
感情から情念に至るには、感情が「何であるか」を知る必要がある。感情は言語的規定を欠いているので、それが「何であるか」を明示的に知りうることは不可能である。たほう感情は私たちの心のうちで、なんらかの仕方で私たちの思考や行動に影響を及ぼす。主題的な形で私たちに影響を及ぼすのではなく、私たちにおいても知らず知らずのうちに、根本において感情を暗黙のうちで了解している。その暗黙の了解の様式が、私たちに情念として知られるのである。輪郭付けられていない情念は、その様式が混乱した形で、あるいは複数の様式が入り乱れている場合に現れうるのではないだろうか。
感情から情念に至る際に混乱があるのは、なにも認識能力の波が途中の障害物に邪魔されて乱されることばかりに原因があるのではないかもしれない。感情から情念への対応が必ずしも一対一では無い、ということがその原因ではないと私は考える。感情を連続的な点の集合として考え、情念を場のようなものだと考える。つまり、近接した感情は同一の、あるは近接した情念として与えられる。色のグラデーションが与えられた実数の平面のように考えれば良いかもしれない。その際に、情念と情念の間、例えば赤と黄色の間にあるオレンジの部分、そこに私たちの感情が落ち込んだ時、混乱が生じて輪郭を失った情念が現れるのではないだろうか。
2013年10月14日月曜日
2013年9月10日火曜日
言語と意味について
言語の集合 L と文章の集合 S を考える。ある言語 l で書かれた文章 s が存在したとする。文章がうまく要素ごとに区切ることが出来たとして、各要素を自然数と対応させる。
例えば、
を素数とし、
であるとする。これをもとに文章を区切った各要素を「語素」として、以下のように対応付ける(ただし、
は十分に大きな素数であるとしておかなければ、語素と自然数との対応関係が一対一で無くなる可能性がある)。
:文の主語
:文の述語 ……など
このとき、例えば
を「鉛筆が」のように対応させ、語素と自然数が一対一に対応するようにしておく。このとき、
に対し、

という文章と自然数の対応が得られる。が、これは結局ある言語における文の集合から自然数への写像
を考えたことになる。なお、この対応関係は一体一なので、逆に自然数を与えればある言語の文(あるいは単語のみかもしれない)を得ることが出来る。このとき、ある言語の文に対応付けられた自然数を、その「文の意味」と呼ぶことができるのではないだろうか。
以上のような考え方の問題点として、ある言語から別の言語へ、自然数を介して翻訳することが可能になるかもしれないが、それは必ずしも保証されていない。例えば、古典ギリシア語などにみられる小辞は、日本語においては翻訳しづらい言葉、あるいは意味を持たない言葉のように扱われることがあるが、それは古典ギリシア語を母語とする人々にとっては違った扱われ方をしていたかもしれない。その時、古典ギリシア語を母語とする人々にとっての「文の意味」の値と、日本語からみた「文の意味」の値は変わってしまうのではないだろうか。
例えば、
を素数とし、
であるとする。これをもとに文章を区切った各要素を「語素」として、以下のように対応付ける(ただし、
は十分に大きな素数であるとしておかなければ、語素と自然数との対応関係が一対一で無くなる可能性がある)。
:文の主語
:文の述語 ……などこのとき、例えば
を「鉛筆が」のように対応させ、語素と自然数が一対一に対応するようにしておく。このとき、
に対し、
という文章と自然数の対応が得られる。が、これは結局ある言語における文の集合から自然数への写像
を考えたことになる。なお、この対応関係は一体一なので、逆に自然数を与えればある言語の文(あるいは単語のみかもしれない)を得ることが出来る。このとき、ある言語の文に対応付けられた自然数を、その「文の意味」と呼ぶことができるのではないだろうか。以上のような考え方の問題点として、ある言語から別の言語へ、自然数を介して翻訳することが可能になるかもしれないが、それは必ずしも保証されていない。例えば、古典ギリシア語などにみられる小辞は、日本語においては翻訳しづらい言葉、あるいは意味を持たない言葉のように扱われることがあるが、それは古典ギリシア語を母語とする人々にとっては違った扱われ方をしていたかもしれない。その時、古典ギリシア語を母語とする人々にとっての「文の意味」の値と、日本語からみた「文の意味」の値は変わってしまうのではないだろうか。
2013年6月23日日曜日
分類と私たちの思考
私たちは何かへの理解を深めるために、それがどういうあり方をしているか、という性質をさまざま調べあげて、どのように分類されるかということを考えることがある。そうした考え方というのはどれほど有益なのだろうか、ということが最近私がぼんやり考えていることだ。
たとえば、砂糖というのは甘いという性質と白いという性質を持っている。そうして、砂糖に対して「甘く」て「白い」という述語付けを行うことが出来る。しかし、少し考えればわかるように、砂糖は甘くて白いだけではない。砂糖は水によく溶けるし、火にかければ溶ける等々の性質を秘めている。私たちが対象に対して述語付けをするうちには、砂糖は完全に捉えきれていない。もしかしたら、私たちにとって未知なる述語を秘めているかもしれない。
砂糖に関してすべてを知ることができなくても日常生活にはなんら問題はないが、私たちが何かを哲学的に語ろうとした時、その取りこぼされてしまったことがらを無視することはけっして許されないのではないだろうか。
今は砂糖という例をあげたが、私たちの認識においてはどうだろうか。私たちの認識は、一般に主観と客観によって構成されていると考えられる。だが、この主観と客観によってすべてが言い尽くされているのだろうか。これらの概念によって汲み取られていないことはないのだろうか。物自体に想いを馳せるような疑問ではあるが、すこし考えてみようと思う。
たとえば、砂糖というのは甘いという性質と白いという性質を持っている。そうして、砂糖に対して「甘く」て「白い」という述語付けを行うことが出来る。しかし、少し考えればわかるように、砂糖は甘くて白いだけではない。砂糖は水によく溶けるし、火にかければ溶ける等々の性質を秘めている。私たちが対象に対して述語付けをするうちには、砂糖は完全に捉えきれていない。もしかしたら、私たちにとって未知なる述語を秘めているかもしれない。
砂糖に関してすべてを知ることができなくても日常生活にはなんら問題はないが、私たちが何かを哲学的に語ろうとした時、その取りこぼされてしまったことがらを無視することはけっして許されないのではないだろうか。
今は砂糖という例をあげたが、私たちの認識においてはどうだろうか。私たちの認識は、一般に主観と客観によって構成されていると考えられる。だが、この主観と客観によってすべてが言い尽くされているのだろうか。これらの概念によって汲み取られていないことはないのだろうか。物自体に想いを馳せるような疑問ではあるが、すこし考えてみようと思う。
2013年4月29日月曜日
ことば
私たちは文字とことばによって浸されている。
普段本を読まない人であっても、気づけばどこかしらで文字を読み、文字に触れ、文字を綴り、そして文字を大事にする。ことばを発し、ことばを受け取り、ことばを胸にしまい込む。英語であれ、日本語であれ、その他諸外国語であれ。私たちは文字を愛して生きている。ことばに恋して生きている。それも熱心に。
文字は大きさを持っていない。与えられた文字は、紙の上にちょこんと、可愛らしくおさまる。しかし私たちの持つ文字という概念には、そもそも大きさというものは必要ではない。頭の中で綴る "hello!" は、どれくらいの大きさなのだろうか。それを具現化すれば、どれくらいの人がそれを見ることができるだろうか。そしてどれくらいの人がそれに答えられるだろうか。
私たちの祖先がことばを生み出してからどれほどの時が流れたのだろうか。人類の歴史においてそれはどれほどの長さを占めているのか、私にはわからないし、ブラウザのタブを新たに開いてそれを調べるほどの気力も無い。ことばは生まれてから、私たちに支配されると同時に、私たちを厳しく支配してきた。私たちがことばに対してする以上に厳しく。私たちは彼らを利用することによって思考をし、表現し、そして通じ合う。ところがこれは裏を返してみれば、我々の思考は、表現は、交通は、厳しく言葉によって律せられている。知らないことばを話す人達に、どのように関わるべきなのだろう。
もしこの世に、というよりもカギカッコをつけた「世界」に、死んだ人がみなそこへ行き、幸せに暮す天国というものがあるのならば、みんなが仲良く過ごす天国があるのならば、そこではどんなことばが、どんな文字が使われているのだろう。
普段本を読まない人であっても、気づけばどこかしらで文字を読み、文字に触れ、文字を綴り、そして文字を大事にする。ことばを発し、ことばを受け取り、ことばを胸にしまい込む。英語であれ、日本語であれ、その他諸外国語であれ。私たちは文字を愛して生きている。ことばに恋して生きている。それも熱心に。
文字は大きさを持っていない。与えられた文字は、紙の上にちょこんと、可愛らしくおさまる。しかし私たちの持つ文字という概念には、そもそも大きさというものは必要ではない。頭の中で綴る "hello!" は、どれくらいの大きさなのだろうか。それを具現化すれば、どれくらいの人がそれを見ることができるだろうか。そしてどれくらいの人がそれに答えられるだろうか。
私たちの祖先がことばを生み出してからどれほどの時が流れたのだろうか。人類の歴史においてそれはどれほどの長さを占めているのか、私にはわからないし、ブラウザのタブを新たに開いてそれを調べるほどの気力も無い。ことばは生まれてから、私たちに支配されると同時に、私たちを厳しく支配してきた。私たちがことばに対してする以上に厳しく。私たちは彼らを利用することによって思考をし、表現し、そして通じ合う。ところがこれは裏を返してみれば、我々の思考は、表現は、交通は、厳しく言葉によって律せられている。知らないことばを話す人達に、どのように関わるべきなのだろう。
《他者》とは、わたしの「言うことをきかない」者、けっして私の思い通りにはならない、不可解きわまりない者のことである。(立川健二・山田広昭『現代言語論 ソシュール フロイト ウィトゲンシュタイン』1990, 新曜社)こんなにも他者を恐れている。ことばと意味を共有しないだけで。私たちが理解しあえない、ごくごく小さな理由のひとつかもしれない。だからといってことばがひとつだけだったとしたら、その世界は平和だったかどうかは疑問符が絶えないと思う。
もしこの世に、というよりもカギカッコをつけた「世界」に、死んだ人がみなそこへ行き、幸せに暮す天国というものがあるのならば、みんなが仲良く過ごす天国があるのならば、そこではどんなことばが、どんな文字が使われているのだろう。
2013年4月15日月曜日
一枚
時間はいつも連続しているように見える。けれども、あまり詳しいことは知らないのだが、物理学の世界ではどうやら時間は紙、あるいはもっと薄い膜を重ねたような構造になっているとか。どういう意味でかは知らないが、観測して有意味になる範囲がそうなのだという。
連続した時間と積み重ねの時間。生活の時間と物理学の時間にはこうした違いがあるように思われる。哲学者の時間は、どちらかと言えば物理学の時間に近い。哲学者、あるいは哲学的な議論を好む人達にとって、生活の時間とは「無い」ものになる。
私たちの実感として、今は「ある」し、過去は「あった」もので、未来はやがて「ある」。「ある」という実感。時間に対してはこうした肯定がある。連続を契機する点に、私たちは実在性を求めているのだろう。結局、そうした意味において私たちの時間は一枚を重ねているようなものかもしれない。
連続した時間と積み重ねの時間。生活の時間と物理学の時間にはこうした違いがあるように思われる。哲学者の時間は、どちらかと言えば物理学の時間に近い。哲学者、あるいは哲学的な議論を好む人達にとって、生活の時間とは「無い」ものになる。
過去は「もうない」、現在は「存在の幅がない」、未来は「まだない」ということになり、三つの時間様相のすべてが「ない」ことになる。(植村恒一郎『時間の本性』2003, 勁草書房)時間は私たちの実感として「ある」ものである。だけれども、我々が連続的と考えている生活の時間において、「存在の幅がない」のだろうか。「無さ」の上に着陸してしまうものなのだろうか。
私たちの実感として、今は「ある」し、過去は「あった」もので、未来はやがて「ある」。「ある」という実感。時間に対してはこうした肯定がある。連続を契機する点に、私たちは実在性を求めているのだろう。結局、そうした意味において私たちの時間は一枚を重ねているようなものかもしれない。
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