スコトゥスは Ordinatio II, d. 3, p. 1, q. 4 の冒頭で挙げられるボエティウスの説、すなわち、相異なる複数のものは同時に同じ場所を占めることができない、ということから、それを個別者相互の区別の根拠とする説を論駁する。だが、ボエティウスの説は直観にかなったものであるといえるし、哲学史上、このような思考をもって個別者の区別がなされることも多かっただろう。この論駁はどのようにして可能になるのだろうか。
Ordinatio における個体化の原理に関する議論において、スコトゥスは附帯性一般を個体化の原理から退ける。附帯性一般とは、質、量等々の実体に後続するカテゴリーを指していると考えてよい。したがって、その議論からでは当然、附帯性として扱われる「位置」が個体化の原理足り得ない。実体は附帯性の基体であり、基体であるかぎりは「これ」であって、附帯性が在る前にはかならず実体は個体化されていなければならないからである。ではこの実体の先行性による「附帯性は個体化の原理ではない」という議論をいかに考えるべきか。そのことについていくつか思ったことがあるのでそれを書き留めておく。
そのために、まず同第二問において批判される、ヘンリクスによる「二重の否定」による個体化の説を紹介する。「二重の否定」とは、「或る〈この〉ものが〈あれ〉でない」という〈あれ〉に対する否定と、「〈これ〉が分割されない」という〈これ〉に対する否定とからなる原理で、「〈あれ〉でなく、分割されない」というかぎりで〈これ〉は〈これ〉であり、〈これ〉以外のものではない、ということから個体化の原理を捉える説である。
これに対してスコトゥスは、雑駁にいえば、「〈これ〉が分割されない」ということによっては個体足り得ない、と指摘する。どういうことかといえば、個体とは分割に矛盾するようなものでなくてはならず、単に「分割されない」ということだけでは、そうした「分割に対する矛盾」は引き出せないからである。そこで例に挙げられるのが「盲目な人」である。「盲目な人」にとって「視ること」は否定されているが、「盲目な人」に「視ること」が矛盾するわけではない。手術によって視力を取り戻すことも可能であろう。「盲目な人」を個別者に、「視ること」を分割に置き換えればスコトゥスの論旨は理解できよう。
ところで、二重の否定説への批判は、もう一方、すなわち「〈これ〉が〈あれ〉でない」という方にも向けられる。そこでの議論を簡潔にまとめれば、「否定によってソクラテスが在り、否定によってプラトンが在るが、おなじ性質の否定によってなぜ二つの区別された個別者が得られるのか」というものである。否定はその構造上「〈これ〉は〈あれ〉でない」という性質しかもっておらず、それではソクラテスとプラトンとの区別には充分ではない、という(「〈これ〉が〈あれ〉でない」という性質によって区別するならば、「ソクラテスはプラトンではない」と「プラトンはソクラテスではない」ということによって相互に区別できそうであるが、おそらくスコトゥスのいいたいのは「ソクラテスはプラトンではない」と「プラトンはソクラテスではない」とがそれぞれソクラテスとプラトンとに帰属するような場がさらに求められる、ということであろうか)。
ところで、『形而上学問題集』の個体化論を扱う第七巻第十三問においては、後者の議論、すなわち「〈これ〉が〈あれ〉ではない」ということに対する批判は別段加えられることはない。それは、〈これ〉と〈あれ〉とが相異している場では、〈これ〉は〈あれ〉でないというしかたで「同一性の否定」が介入せざるを得ないからであろう。もちろん上段落の最後に、括弧内で補足したように、スコトゥスは単に「同一性の否定」では満足しない。スコトゥスにおいては、最終的に「分割への矛盾」と「同一性の否定の根拠」とにまで至らねばならない。したがって、「〈これ〉が〈あれ〉でない」という否定に関しては、そうした結果をもたらす根拠を追求することがスコトゥスの個体化論の探求であったのである。そういう意味で、ヘンリクスの立場をより厳密化した態度で探求を行っていたといえるのではないだろうか。
さて、冒頭の位置の相異の問題に戻るが、スコトゥスによる批判は、この「二重の否定」説への批判の、とくに後者、すなわち「〈これ〉が〈あれ〉ではない」という否定への批判と同様の構造を持っていると言えるであろう。すなわち、現実に在るものは、実際に〈これ〉が〈あれ〉でないのと同様に、〈これ〉と〈あれ〉という二つの相異なるものが同じ位置を占めることは確かに不可能である。このことは間違いがない。しかし、スコトゥスにとっては、位置が個別者との関わりで、「〈これ〉が〈この〉位置にある」とか「〈あれ〉が〈あの〉位置にある」とかいうのには、それぞれの位置が〈これ〉と〈あれ〉とに帰属するような場が求められねばならないのであろう。二つのものがそれぞれの位置を占め、同じ位置を占めることが無いというのは、いわば「同じ位置の否定」でしかなく、スコトゥスにとっては、その否定を可能たらしめる「同じ位置の否定の根拠」にまでゆかねばならない。この意味で「同一性の否定」も「同じ位置の否定」も、スコトゥスの個体化の原理のいわば「結果」でしかなく、〈これ〉と〈あれ〉という二つのものがそれぞれとしていわば「区別され始める」ようなラインに立つものではないかぎりで、「二重の否定」や「位置の相異」は個体化の原理としては否定されるべきものであったのであろう。
2015年1月10日土曜日
2014年11月23日日曜日
個別、これ、あれ
肩肘はらずに、いくつかのことをぽろぽろとこぼすだけでもいいのかもしれない。
« sed unitatem signatam (ut 'haec'), .... » (Duns Scotus, Ord. II, d. 3, p. 1, q. 4, n. 74)
スコトゥスはそうした「これ」と「あれ」の差異の原理を付帯的なものには認めていない。あの人は背が高くて、顔かたちが良くて、声がどうで知性がどうで、云々。こうしたことは他の人との区別の最終的な根拠にはならないのである。顔がまったく同じであっても、彼らは区別されている。ほんとうに?
人は同じであってはならない。モノは同じであってはならない。動物は同じであってはならない。このミケはこのミケで、あのタマとは違う。ライプニッツが拾い上げた二枚の葉は、たとえ似ていても同じではない。区別できるところが一切ないところまでいって、モノは同じであるといえる。同じものは、実在の次元にはなにもない。
こぼすだけでは何も言ったことにはならないと、書いてしまってから反省した。
すこし別な話。
« quia non est intelligibile quod idem generet se (etiam in divinis persona non generat se). » (ibid., n. 110)
« sed unitatem signatam (ut 'haec'), .... » (Duns Scotus, Ord. II, d. 3, p. 1, q. 4, n. 74)
そうではなく、(「これ」として)指し示される一性を……。« igitur nullo tali est formaliter 'haec substantia', hac singularitate, signata. » (ibid. n. 77)
したがって、そうした〔附帯性の〕いかなるものによっても、実体は形相的に、この単一性によって、すなわち指し示されることによって「この実体」とはならないのである。指をさして「これ」と言うことのできるもの、「これ」と「あれ」は違っているということ。たとえば「この鉛筆」は「あの鉛筆」とは違う。間違うことはあっても、それらは違うものでなければならない。「この人」と「あの人」がたとえ似ていたとしても、その人達が決しておなじ人ではないように。
スコトゥスはそうした「これ」と「あれ」の差異の原理を付帯的なものには認めていない。あの人は背が高くて、顔かたちが良くて、声がどうで知性がどうで、云々。こうしたことは他の人との区別の最終的な根拠にはならないのである。顔がまったく同じであっても、彼らは区別されている。ほんとうに?
人は同じであってはならない。モノは同じであってはならない。動物は同じであってはならない。このミケはこのミケで、あのタマとは違う。ライプニッツが拾い上げた二枚の葉は、たとえ似ていても同じではない。区別できるところが一切ないところまでいって、モノは同じであるといえる。同じものは、実在の次元にはなにもない。
こぼすだけでは何も言ったことにはならないと、書いてしまってから反省した。
すこし別な話。
« quia non est intelligibile quod idem generet se (etiam in divinis persona non generat se). » (ibid., n. 110)
というのも、同じものが自らを生成することは理解不可能であるからである(さらに神的なものにおいても、ペルソナは自らを生成しない)。事物が「自己原因」であることは理解不能であるとスコトゥスが批判した箇所であるが、デカルトやスピノザはこの批判をどう乗り越えたのか。スコトゥスからデカルトまでに流れた時間は長い。
2014年10月27日月曜日
ドゥンス・スコトゥス全集を買う
後期スコラの代表人物であるヨハネス・ドゥンス・スコトゥスの全集はインターネットで購入することができます。ところが購入できるページがイタリア語で、商品到着までの詳しい流れが分からなかったということもあったので、個人的なメモとして、さらにはこれからスコトゥスを読みたいと思った方のために日本語で纏めておこうと思います。
購入は以下のページでできます。
Frati Quaracchi - Collegio San Bonaventura -
購入にはアカウントが必要になります。まずは住所・氏名等々の必要な情報を登録フォームに入力してアカウントを取得します。アカウントが正しく取得できると、ログイン中に、ページ左端の CATEGORIE の上に IL MIO ACCOUNT というカラムが表示されるようになります。そこでいつでも自分の登録情報を修正することができます。
実際に商品をカートに入れると、ページ右端の CARRELLO に商品代金が表示されます。ほしい商品を入れ終えたら Check out を押して詳しい購入手続きをしていきます。購入手続きが完了すると、自動でメールが二通配信されてきます。すべてイタリア語で書かれていますが、買った金額と送付先住所の確認が為されます。
ただし購入にはクレジットカードが使えず、口座宛に指定された金額を振り込まねばなりません。
ここで一つ大きな問題があって、おそらくこのページはあまり機能していないのです。私は 2014 年 9 月 18 日に注文したのですが、振込先と最終的な振込金額が指定されたメールが届いたのはそれから一週間以上経った 9 月 29 日でした。(そのメールは英語でした。)それまでは、どうやってお金を振り込めばいいのだろう、と再注文してみたり、ページのあちこちを探しました。待たねばならないそうです。そして 10 月 2 日に指定された金額を指定された口座に振り込みます。振込は郵便局で行いました。口座を持っていなくてもできるのが便利です。振込手数料も比較的安いと思います。振り込む際には、手数料とは別に、口座登記料といって余分に 2 ユーロが必要でした。
そしておよそ三週間後の 10 月 26 日に私の手元にスコトゥス全集が届きました。注文からは一ヶ月以上経ちました。けっきょく振込から手元に届くまでに、一切連絡は無く、振込確認のメールが届くとばかり思っていたものですから、金額が不足していたのか、それとも振込先の口座を間違えたのか、不安になってサイト経由で 10 月 17 日にメッセージを送りました。(が、結局返信はありませんでした。)
ほんとうに中世のような時間のゆっくりとした流れの中で本を買うことができたのは非常に珍しい経験だとおもいます(もちろん中世だともっと遅かったでしょう。もしかしたら届かなかったかも)。ですが、急いで読みたい場合もあると思いますし、注文するときは早め早めにしたほうがいいかもしれません。
購入は以下のページでできます。
Frati Quaracchi - Collegio San Bonaventura -
購入にはアカウントが必要になります。まずは住所・氏名等々の必要な情報を登録フォームに入力してアカウントを取得します。アカウントが正しく取得できると、ログイン中に、ページ左端の CATEGORIE の上に IL MIO ACCOUNT というカラムが表示されるようになります。そこでいつでも自分の登録情報を修正することができます。
実際に商品をカートに入れると、ページ右端の CARRELLO に商品代金が表示されます。ほしい商品を入れ終えたら Check out を押して詳しい購入手続きをしていきます。購入手続きが完了すると、自動でメールが二通配信されてきます。すべてイタリア語で書かれていますが、買った金額と送付先住所の確認が為されます。
ただし購入にはクレジットカードが使えず、口座宛に指定された金額を振り込まねばなりません。
ここで一つ大きな問題があって、おそらくこのページはあまり機能していないのです。私は 2014 年 9 月 18 日に注文したのですが、振込先と最終的な振込金額が指定されたメールが届いたのはそれから一週間以上経った 9 月 29 日でした。(そのメールは英語でした。)それまでは、どうやってお金を振り込めばいいのだろう、と再注文してみたり、ページのあちこちを探しました。待たねばならないそうです。そして 10 月 2 日に指定された金額を指定された口座に振り込みます。振込は郵便局で行いました。口座を持っていなくてもできるのが便利です。振込手数料も比較的安いと思います。振り込む際には、手数料とは別に、口座登記料といって余分に 2 ユーロが必要でした。
そしておよそ三週間後の 10 月 26 日に私の手元にスコトゥス全集が届きました。注文からは一ヶ月以上経ちました。けっきょく振込から手元に届くまでに、一切連絡は無く、振込確認のメールが届くとばかり思っていたものですから、金額が不足していたのか、それとも振込先の口座を間違えたのか、不安になってサイト経由で 10 月 17 日にメッセージを送りました。(が、結局返信はありませんでした。)
ほんとうに中世のような時間のゆっくりとした流れの中で本を買うことができたのは非常に珍しい経験だとおもいます(もちろん中世だともっと遅かったでしょう。もしかしたら届かなかったかも)。ですが、急いで読みたい場合もあると思いますし、注文するときは早め早めにしたほうがいいかもしれません。
2014年10月22日水曜日
距離、近さと遠さ
すこし日があいてしまった。呆けながらもいくつか本を読んでいた。卒業論文の執筆を始めている。四年間は短い。部分は全体よりも小さい。ゆえに、この冬はさらに短い。
距離があるというのは幸せなことかもしれない。距離の構造が入っているからこそ、私達は二つの間の距離を測ることができる。私と太陽の距離は測ることができる。私と、誰かの距離も、ものさしを継ぎ合わせれば、たとえ遠くとも。
比喩的な意味においても、距離は考えられる。私と、中世後期の哲学という舞台で活躍した彼はおよそ 600 年の隔たりを持っている。同じ尺度の上に立つことができるから。何かと何かの距離を測ることができるのは、私とあなたとの間に、なにかある共通の尺度、もっといえば共通なものがそなえられているからである。長さであり、時間であり、はたまた言語、人種、性別……。緑色の文字を見るとき、私もまた距離を感じ、同じ尺度の上に立っていることを思う。誰かと声を交わす時にもまた。
哲学のことを少しだけ。
私は中世スコラ哲学のことを卒業論文で扱っている。大学でデカルトを読み、授業でスピノザを聞き、友人たちとライプニッツを読んだ。あるいは家に篭って、今年の夏が盛り始める前に訳が出たジルソンのトマス・アクィナスについての研究を。彼らの思想において、私には神と被造物の距離が異なるように思える。トマスについては、その著作に触れたことが無いので大きいことは言えないが、デカルトもライプニッツも、強い反実仮想であれ「私が神になってしまう」ような事態を想定している。距離がある。トマスについては、その基本的な思想しか述べられないが、存在するものは「在りて在るもの」である神からその存在 esse を分有するかたちで在る。あるいは、在るかぎりで共通かもしれない。だがトマスによれば、それは類比的にあるに過ぎない。それでは、「存在それ自身」と規定される神と、その存在を分有している存在するものの距離や如何に?
近づきすぎてはよく見えない。かといって離れすぎてはよく分からない。
距離があるというのは幸せなことかもしれない。距離の構造が入っているからこそ、私達は二つの間の距離を測ることができる。私と太陽の距離は測ることができる。私と、誰かの距離も、ものさしを継ぎ合わせれば、たとえ遠くとも。
比喩的な意味においても、距離は考えられる。私と、中世後期の哲学という舞台で活躍した彼はおよそ 600 年の隔たりを持っている。同じ尺度の上に立つことができるから。何かと何かの距離を測ることができるのは、私とあなたとの間に、なにかある共通の尺度、もっといえば共通なものがそなえられているからである。長さであり、時間であり、はたまた言語、人種、性別……。緑色の文字を見るとき、私もまた距離を感じ、同じ尺度の上に立っていることを思う。誰かと声を交わす時にもまた。
哲学のことを少しだけ。
私は中世スコラ哲学のことを卒業論文で扱っている。大学でデカルトを読み、授業でスピノザを聞き、友人たちとライプニッツを読んだ。あるいは家に篭って、今年の夏が盛り始める前に訳が出たジルソンのトマス・アクィナスについての研究を。彼らの思想において、私には神と被造物の距離が異なるように思える。トマスについては、その著作に触れたことが無いので大きいことは言えないが、デカルトもライプニッツも、強い反実仮想であれ「私が神になってしまう」ような事態を想定している。距離がある。トマスについては、その基本的な思想しか述べられないが、存在するものは「在りて在るもの」である神からその存在 esse を分有するかたちで在る。あるいは、在るかぎりで共通かもしれない。だがトマスによれば、それは類比的にあるに過ぎない。それでは、「存在それ自身」と規定される神と、その存在を分有している存在するものの距離や如何に?
近づきすぎてはよく見えない。かといって離れすぎてはよく分からない。
2014年7月21日月曜日
quantum ということばについて
« Creationem rerum insinuans Scriptura » ... etc. . Postquam Magister in primo libro determinavit de Deo quantum ad rarionem suae naturalis perfectionis, ... .引用は Duns Scotus の Ordinatio II, d. 1, q. 1 に挿入された文章から。引用部冒頭のギュメによって括られたのは、 Lombardus からの引用だそうだ。そこで、第二文の Magister は Lombardus を指していると考えられる。ここを読む上で躓いたのが quantum (ad) ... という表現である。いちおういろいろと調べてみたので、私と同様の躓きをした人のためにメモしておこうと思う。
結論からいえば大したことはなく、大きめ辞書を引けば例文も出てくる。 Twitter で、フォロワーからの指摘もあった。ありがたい世の中である。 Perseus digital library には Word study tool というものがあり、そこで quantum を引けばこのようになる。インターネット上で Lewis & Short を引くことができる。非常に便利。 L & S を展開して、 "quantum ad" で検索すれば三件引っかかった。これはすごい。
“denegabit quantum quantum ad eum erit delatum,” Plaut. Poen. 3, 4, 28
“quantum ad Pirithoum, Phaedra pudica fuit,” as far as concerned, with respect to, Ov. A. A. 1, 744
“quantum ad jus attinet,” Sen. Contr. 5, 34, 16; 3, 16, 1.どうやら古典期からいくつかの用法があるようだ。 一つ目はすこし違って、 quantum quantum となっている。分かち書きすることがあるのかどうかは知らないが、水谷智洋編の『羅和辞典』によれば、 quantusquantus = quantuscumque で「いかに大きく[小さく]ても、どれほどの量[程度]でも」とある。文脈を追うほどの能力が無いので、ここでは追求はとめておく。
おそらく、求めている意味は二つ目の例文のように思われる。"quantum ad" で検索していると、多くの用例が見つかった。近い時代では、トマス・アクィナスのものがあったので、それも引用しておこうとおもう。
Et licet indiciduatio eius ex corpore occasionaliter dependeat quantum ad sui inchoationem, ... .De Ente et Essentia の第五章からの引用。『中世思想原典集成 第十四巻』におさめられた須藤和夫訳では「……〔人間の〕魂の固体化はその発端に関して、……」とある。上の二つ目の例文と同じような意味の訳例が見つけられた。
上記『羅和辞典』によると、これに近そうなものは「…の限り」となっているものであろうか。例文には「"quantum ego existimare possum," 私が判断できるかぎりでは」、「"quantum in te est," あなたに関する限り」とだけある。すこしばかり上の文脈に合わせるのは難しそうだと思った。
もう一度、問題となった文章を見てみる。
« Creationem rerum insinuans Scriptura » ... etc. . Postquam Magister in primo libro determinavit de Deo quantum ad rarionem suae naturalis perfectionis, ... .「『事物の想像を記述すれば、聖書は……』云々。ロンバルドゥスが第一巻で、神について、彼の自然的完全性の ratio に関して規定したあとで……。」という訳になるだろうか。
2014年7月16日水曜日
MAILIED / 五月の歌
Mailied
Wie herrlich leuchtet
Mir die Natur!
Wie glänzt die Sonne!
Wie lacht die Flur!
Es dringen Blüten
Aus jedem Zweig
Und tausend Stimmen
Aus dem Gesträuch
Und Freud' und Wonne
Aus jeder Brust.
O Erd', o Sonne!
O Glück, o Lust!
O Lieb', o Liebe!
So golden schön,
Wie Morgenwolken
Auf jenen Höhn!
Du segnest herrlich
Das frische Feld,
Im Blütendampfe
Die volle Welt.
O Mädchen, Mädchen,
Wie lieb' ich dich!
Wie blickt dein Auge!
Wie liebst du mich!
So liebt die Lerche
Gesang und Luft,
Und Morgenblumen
Den Himmelsduft,
Wie ich dich liebe
Mit warmem Blut,
Die du mir Jugend
Und Freud' und Mut
Zu neuen Liedern
Und Tänzen gibst.
Sei ewig glücklich,
Wie du mich liebst!
Johann Wolfgang von Goethe
私に向かって燦然と、春の自然は輝いている。
太陽は爛々と輝き、草原は爽々と笑う。
そこかしこで花は盛り、
あちらこちらで囀りが舞い飛ぶ。
誰もがみなこの上ない春の喜びを歌う。
ああ、大地、太陽。ああ、幸福、悦楽。
ああ愛、愛よ。眩く美しき愛。
山々の頂きを覆う、朝の雲にも似たる愛よ。
君は晴れやかに祝福する。この新緑の野を、
霞にも紛う花畑のなかで、満ち満ちた世界を。
ああ少女、少女よ。こんなにも君を愛している。
美しく輝く瞳の少女。こんなにも僕を愛している。
雲雀が歌と空とを愛している。
朝の花が天の匂いに恋している。
それは私が脈打つ心で君を愛おしむように。
君は青春と喜びと勇気とを
私の新しい歌と踊りに与えてくれる。
いつまでも幸福であれ。君が私を愛してくれるように。
ゲーテ
------
今回も原詩二行を、だいたい日本語一行に置き換えています。原則として一つのことばは同じ行で訳してしまうようにしていますが、ときおりあちこちに飛んでいる場合があります。その際に訳し加えたことばもあったり、訳すときに削ったことばもあったり。
„Blütendampfe“ ということばの訳にかなり迷いました。薄く靄の立ち込める中、靄を色づけるように花が色とりどりに咲いているのか、それとも日本語の「花霞」ということばのように、花そのものが霞のように咲いているのか。訳の上では後者のように理解して、「霞にも紛う花畑」と、とりあえず訳しました。これよりもいい訳がある方は、ぜひご教授ください。
実際に訳してみると、行ごとに対比が意識されているような箇所が数多くあり、とりあえず日本語に置き換えただけでも漢詩を読んでいるような気がして非常に面白い詩だと思いました。
2014年6月25日水曜日
GEFUNDEN / みつけた
Gefunden
Ich ging im Walde
So für mich hin,
Und nichts zu suchen,
Das war mein Sinn.
Im Schatten sah ich
Ein Blümchen stehn,
Wie Sterne leuchtend,
Wie Äuglein schön.
Ich wollt es brechen,
Da sagt es fein:
Soll ich zum Welken
Gebrochen sein?
Ich grub's mit allen
Den Würzlein aus.
Zum Garten trug ich's
Am hübschen Haus.
Und pflanzt es wieder
Am stillen Ort;
Nun zweigt es immer
Und blüht so fort.
Johann Wolfgang von Goethe
森へ、森へ、たった一人で。
何かを探すわけでもなく。
木陰のひそかに、花は小さく咲いている。
星の輝くように、瞳の光るように美しく。
手折ろうとすれば、かすかにささやく。
手折られ萎れてしまうのでしょうね。
根からまるまる掘り出して、
すてきなお家の庭へとご招待。
それからあなたを静かな場所へ。
今日ものびのび咲き続ける。
ゲーテ
------
原詩二行を日本語一行に置き換えました。訳語を選ぶ上で、原語の意味からやや離れていたり、原詩には無い訳語を加えたところもあります。
ドイツ詩については詳しいとか詳しくないとかいう次元にいる人間ですので、解説めいたことはできませんが、各行ともアウフタクトから始まり、優しく語りかけるような印象を受けます。それでいて、各行とも非常に短く、弱・強・弱・強というリズムで、それぞれの聯が a, b, a, b という形で押韻されており、楽しい雰囲気も秘めているように思われます。訳詩においても、リズムの良さを活かしたかったのですが、私の稚拙な読解力と貧弱な語彙ではこれが精一杯でした。
これから眠られぬ夜などには、こうして詩や小説の一節などを訳してみようと思います。
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