2016年6月21日火曜日

「実在」ではないどこか

したがって、これらの諸根拠の結論を認めよう。〔つまり、その結論は以下のとおり。〕まさに固有な特質 ratio によってであるように、〈この〉石に内在する措定的な或るものによって、下属する部分へと分割されることがそれに相反するということは必然である。そして、その措定的なものは自体的に、個体化の原因であると言われるところのものであろう。というのも、個体化ということによって、私は、分割不可能性ないし、分割可能性への相反を理解しているからである。(Duns Scotus, Ord. II, d. 3, p. 1, q. 2, n. 57).
個別者とは何か。どこにいるのか。ふだん私たちが目にするものすべては個別者である。世界は個別者によって満たされている、という思考は、(一部の哲学者を除き)多くの人びとによって受け入れられることであろう。

 中世において広く議論された「個体化の原理」を考える際に、「個別者とはなにか」ということを考えておくことは、Gracia も指摘しているとおり重要なことである。「個別者は述語の束である」と考える哲学者は、おそらく「個体化の原理は質料である」と考える方向へは向かわないであろう。その哲学者にとって「個別者とはなにか」ということが、彼の個体化の原理の探求において重要な前提であると考えるのはおそらく正しいことであるといえる。

 上に引用したドゥンス・スコトゥスは、個体化を「下属する部分への分割への相反」を個体化として考えていた。「下属する部分への分割」とは、類を種へ、種を個別者へと分けるような分割のことである(詳しくは「スコトゥスと「二重の否定」説」を参照)。スコトゥスにとって個別者とは「人間という種に属するソクラテスは、動物が人間へと分割されるようなしかたで分割されることはなく、また人間という種に属する別の個別者であるプラトンから区別される」という例で表されるようなものである。ここを捉えれば、先にリンクした記事においても述べられたことであるが、個別者はこのような「二重の否定」(厳密に言えば、ヘンリクスに帰されている説が「二重の否定」であり、スコトゥスはそれを修正したしかたで受容しているのだから、「修正二重の否定」説と呼べる)を伴うものである。仮に「個別者」を「「修正二重の否定」説によって記述されるようなもの」として考えられるとしよう。そのとき、スコトゥスはそのような個別者を析出させる原理を個体化の原理としなければならないだろう。それは「述語の束」でも「質料」でもあり得ない。この問題に関するスコトゥスの特徴はこの点に存すると考えられる。

 上記引用において、スコトゥス自身は「ソクラテスは、動物が人間へと分割されるようなしかたで分割されることはない」という事態が個体化である、と考えている。このことは更に考察されるべきである。
範疇の体系に自体的に属するところのものはみな、その体系には決して属することの無いもの全てを除いて、その範疇の体系の内に在る。......それゆえ、本質の概念規定のもとにあるものを劃然と考察することで、類において最高のものが見いだされるように、中間の諸々の類、そして種や種差もが見いだされる。さらにそこでは、現実的な現実存在が全きしかたで取り除かれることで、最下位のもの、すなわち単一なものが見出される。このことは明証的に明らかである。というのも、「人間」が形相的に現実的な現実存在を含まないのと同様、「〈この〉人間」もそうだからである。(Ibid., q. 3, n. 63).
スコトゥスは、動物を人間へとする分割と、人間をソクラテスやプラトンへとする分割との間に根本的な差異を措定していない。そのことを考えると、「動物―人間―ソクラテス」のそれぞれは、なんらか共通の存在論的ステータスを有していなければならない。このことに関して、二通りの見解が可能であろう。すなわち、(1) 「動物」や「人間」といった類や種が、実在するソクラテスの方に引きずられ、何らか「実在的」というステータスを帯びることになるか、或いは (2) ここで言われているソクラテスが、必ずしも実在しているソクラテスではなく、類や種といった概念へと引きずられているか、このいずれかである。上記引用によれば、(2) の方針を採っているように思われる。スコトゥスが思考している「個別者」は、必ずしも実在を含んでいるわけではない。こうした「個別者」をどのように位置づけるか。類や種が論理学的志向 intentio logicalis として、すなわち概念として位置付けられることを考えて、仮に「論理学的」と位置づけることにする。

 論理学的個別者を考えることは、彼の個体化の原理についての学説に再考を迫る。個体化が「下属する部分への分割への相反」であり、下属する部分への分割というのが、類を種へ、種を個別者へ、という仕方で、「論理学的」なターミノロジーを用いて語られることを考えれば、個体化を「実在」の領域に閉じ込めてしまうことには問題があると考えられる。彼の個体化を考えるならば、ここでは「論理学的」と名付けた、実在ではないどこかを想定する必要があるだろう。そこを「論理学的」と名付けることが正当であるのかどうかもまだ疑われることであるが。

 一般に、ある哲学者の個体化の原理を考察する際には、その哲学者が個別者に関してどのような見解を有しているのか、ということを見ることは有益である。それどころか、必要不可欠であるとも思われる。「個体化の原理」ということばこそはひろく流通していたものであるが、少なくとも中世では、そのことばをどう解するかということにおいて、一致があったわけではない。個体化の原理の探求が、どういうことがらに関わっており、その当の哲学者の体系においてどのように位置付けられるか、ということをみる際、その哲学者の個別者についての理解を併せて参照することはおそらく重要なことであるだろう。

2016年1月11日月曜日

スコトゥスと「二重の否定」説

 昨年の夏にちょっとした発表の機会を頂いて、そこでドゥンス・スコトゥスの『命題集註解』Ordinatio 第二巻第三区分第一部第二問を中心にして、スコトゥスにおける個体化の原理の特徴を描き出すことを目指した。現在第一問から第七問までの翻訳をすこしずつ進めている。最近思い出したように訳を再開し、第二問が終わったので考えたことを、前回発表したことを交えつつ、すこしメモ程度に書いておこうと思う。

 Ord. II, d. 3, p, 1 は七つの問題に分かれている。第一問から順に「質料的実体はそれ自身によって、あるいは自らの本性によって個別的ないし単一的であるか」、「質料的実体はある肯定的で措定的なものによってそれ自身で個別的であるか」、「質料的実体は現実的な現実存在によって個別的、ないし他のものを個別化する根拠であるか」、「質料的実体は量によって個別的ないし単一的であるか」、「質料的実体は質料によって〈これ〉であり、個別的であるか」、「質料的実体は、本性を単一性へと自体的に規定する或る存在性によって個別的であるか」、「諸々の天使が同じ種において複数在ることは可能か」と問われる。前にもここに書いたことがあるが(「ドゥンス・スコトゥス『命題集註解』第二巻第三区分第一部第四問に関する覚え書き」。夏の発表もこれを踏み台にしている。)、第二問においては、ガンのヘンリクスの説として「二重の否定」説が検討される(ヘンリクス自身の個体化の原理についての議論はまたいくらか問題があるが、ここでは触れないことにする)。

 「二重の否定」説は、(1)「分割の否定」と (2)「他のものとの同一性の否定」という二つの否定のことを指している。(1) についてだが、分割といっても、あたかもスイカを六つに割るような分割ではない。「動物」が「理性的」と「非理性的」とに分割されるような、事物の本質に関わる分割のことが考えられている。「動物」が「理性的」と「非理性的」とに分割されるのと同じ分割のしかたで「人間」がソクラテスやプラトンに分割されるとスコトゥスは考えている(『形而上学問題集』第七巻第十三問)。(2) については直観的に理解できるし、前にも書いたのでここでは説明を省く。「分割されず、他のものではない」という二つの否定が個体化の原理である、というのは比較的理解しやすいことであるが、スコトゥスは「しかしながら、それでもこの立場はまったく余分であり、問いに答えていないと思われる。というのも、その立場が措定されても、依然として同じ問いが残るからである」と切り捨てている。

 スコトゥスの批判がいかなるものであったかについては、細かい議論を要するのでまた別の機会に譲ることにしたいが、今回翻訳をしていて気になった箇所があるので、そこを引用しておく。

      Ad argumentum 'in oppositum':
      Licet assumptum sit falsum forte (de quo alias), tamen si verum esset quod 'unum' significaret formaliter illam duplicem negationem, non sequitur quod non habeat aliquam causam positivam per quam insit ei illa duplex negatio, - nam et unitas specifica pari ratione significaret duplicem negationem, et tamen nullus negat entitatem positivam esse in ratione entitatis specificae, a qua entitate positiva sumitur ratio differentiae specificae. Et istud est argumentum bonum pro solutione quaestionis et pro opinione, quia cum in qualibet unitate minore unitate numerali sit dare entitatem positivam (quae sit per se ratio illius unitatis et repugnantiae ad multitudinem oppositam), maxime - vel aequaliter - erit hoc dare in unitate perfectissima, quae est 'unitas numeralis'. 
 「対立する」論拠に対して。
 採用されたもの[=異論の大前提]がおそらく誤っているとしよう(このことについてはまた別の機会に語ることとする)。そうだとしてもしかし、もし、「一」が形相的にあの二重の否定を表示するであろう、ということが真であるとしても、〔その「一」が〕それによってその二重の否定がそのものに内在するところの措定的な或る原因を有していない、ということは帰結しない。実際、同じ議論によって、以下の様に考えられるからである。つまり、種的一性は二重の否定を表示するであろうが、しかしながら、何ものも、そうした措定的存在性から種差の概念規定 ratio が取られるところの種的存在性の概念規定の内に措定的な存在性が在ることを否定することはない。そしてこの論拠こそが問いの解答としても、見解としても優れている。というのも、数的一性よりも小さいいかなる一性においても、(自体的に、一性の、そして反対する多数性に対する相反の根拠であるところの)措定的な存在性が在りうるのだから、とりわけ、あるいは同等に、「数的一性」であるところの、最も完全な一性においても、こうしたことが在りうるであろう。(Ord. II, d. 3, p. 1, q. 2, n. 58, 下線は引用者による。)
 発表では、スコトゥスがガンのヘンリクスの「二重の否定」説を、個体化の原理としては拒否しつつも、それに修正を加え、個別者が有する個体としての性質、つまり「個体性」の理解としては生き残っていると考えた。かなり直観に依拠した議論になってしまっていたが、それをスコトゥスのテクストから読むとしたら、この箇所だろうか(細かい文法事項に疎い筆者は、接続法でも、未完了形になっていることに少し不安を覚える)。ここは種的一性と平行的に語られており、理解もしやすい。

 以上で確認したように、第二問において、スコトゥスが個体化の原理としての「二重の否定」説を拒否しつつも、他方で個体性としての修正「二重の否定」説(細かい議論を省いたため、どういう動機でどのような修正が施されるべきであったかについては触れられていないが)を受け入れていると考えるならば、修正「二重の否定」説が、「個体」概念を根本のところで形作る基礎の一端となるわけだから、第二問は(スコトゥスが Ord. において個体化を語ってるのが Vatican 版で 130 ページあるうち、ほんの 8 ページだけという)その分量的な小ささとは裏腹に、非常に重大な位置を占めていると言える。先にブログに書いた第四問についての理解も、第二問を踏み台にしているところがある。
 あるいは、第二問同様、個体化の原理としては否定された諸々の見解は、修正されて個体性(或いは、個体性とまでは言えないが、ある意味で「個体」理解に強く関与するような概念)として、スコトゥスによって取り込まれているかもしれない。この点はスコトゥスの個体化の原理について、とりわけ Ord. を読む上で注意されるべきではなかろうか、と考えている。

2015年9月26日土曜日

ライプニッツ『個の原理について De Principio Individui』に関する覚書

 ライプニッツの学士論文であるところの『個の原理について』De Principio Individui の読書会が一通り終わったので、スコトゥスと関わるいくつかのことを書き留めておく。

 版によって微妙に構成が異なってはいるものの、(おそらくどの版も)二十六の節からなっている。スコトゥスへの批判に、その大部分、すなわち第十六節から第二十六節までが割かれている。
 主要な論点は、「このもの性」Haecceitas と「形相的区別」distinctio formalisである。いくつかの議論は、普遍に関する立場に関して、そもそも前提が食い違っているということから出てくるものである(たとえば、第二十節に「種は形相や質料によっても、附帯性やその他のものによっても特定化されない。したがって、 「このもの性」が残される。反論。いかなるものによっても、種は特定化されない。というのも、種は精神の外には全く無いからである」といったような議論がある。第二十節・第二十一節はこれと同様の議論がいくつか挙げられている)。

 ライプニッツによる批判で重要な論点は次のようなものであろう。以下に、『個の原理について』第二十四節を引用する。
III. もし形相的区別が認められるのならば、このもの性は滅ぶ ruit. ところで前件は真である。従って云々。証明を行う前に、この区別について何らか述べられねばならない。ところでそれは Stahl., Comp. Metaph., c. 23, Soncin., l. 7, q. 35, Posnaniensis, I. Sent., d. 34, dubio 64 で見て取られうる。
 この区別は一般に、事象的区別と観念的区別の中間のものとしてスコトゥスに帰される。そういうわけで、彼の追随者たちは形相主義者と言われる。この区別によってスコトゥスは、神的なものにおける諸属性やペルソナ的諸関係が神の本質から区別され、事物の何性が事物間で、そして認識されたエッセにおける神から区別され、また上位の述語が下位の述語から、類が種差から、本質が現実存在から区別されると考えた。Rhada はこの区別を次のように説明した。すなわち、〔この区別は〕基体においては同一化されつつ、他方で知性への秩序においては相違する二つの事象性ないし形相性の間にあり、観念的区別からは異なっている。というのも、観念的区別は、その区別以前に現実態における精神の作用を要求するからである。だが、この〔形相的〕区別が現実に用いることにおいて適用されたとき、スコトゥスに追随する人々は、驚くほどに曖昧で一貫していない。というのも、もしこのもの性が種から、知性を動かすということが判明に適合したという点でのみ異なっているのであれば、このもの性は、なんと悪しく個体化の原理へともたらされるのであろうか。というのも、それは知性から切り離すことによって探求されねばならないのだから。したがって、彼らのことばのもとでは、より多くの何らかのことが隠されているのは必然である。それは何であれ馬鹿げている。というのも、知性が切り離されることで異なっているとするや否や、それらは互いに同一化されないからである。
 スコトゥスは本質とこのもの性の間に形相的区別を敷いている。知性によって認識されるのは本質の側のものであり、それとは形相的に区別されるこのもの性は、人間知性によっては認識されない。それでは、スコトゥス主義者たちは人間知性の対象とは成り得ないそれをいかにして探求しているのか。人間知性の対象とは成り得ないものを原理として措定することに問題は無いのか。そのように議論されていると考えられる。この点に関しては、このもの性の認識に関する問題から、スコトゥス的なアプローチをとって再反論を試みるべきであると思う。もちろん、この箇所のライプニッツに記述は、Rhada に依っているところが大きい。私自身、スコトゥスの形相的区別に関して明確な理解があるわけではないのだが、Rhada の説明の「〔この区別は〕基体においては同一化されつつ、他方で知性への秩序においては相違する二つの事象性ないし形相性の間にあり」sit inter duas realitates seu formalitates in subjecto identificatas, diversas vero in ordine ad intellectum というところが少し問題があるような気がする(そしてライプニッツの批判もこの点によせられていると思われる)。私の雑駁な理解では、形相的区別は、いわばこの二つの層のさらにその間に措定されるようなものであると思われる。すなわち、知性との関わりにおいて異なっているということは、事物の側でも、基体において同一でありつつ、その中で相違している(山内先生の訳語を借りれば)存在実質の次元の話であるのではないのだろうか、ということである。しかし「知性が切り離されることで異なっているとするや否や」simulatque enim praeciso intellectu differunt という記述は、知性との関わりという次元ではなく、事物の側での区別を指しているのだろうか。いずれにせよ、ライプニッツ自身がそれほどことばを費やして語っていないせいで、難解となっている。

 さしあたりスコトゥス絡みでやるべきことは、
  • Rhada の形相的区別の説明は、スコトゥスによる記述から十分に導けるものであるかどうか。
  • 導けるのならば、ライプニッツによる批判に対してスコトゥスはどのようにこたえるべきだろうか。
  • 導くことができないならば、Rhada の説明のどこがまずいか。またそのうえでライプニッツのスコトゥス批判に関してはいかに対処すべきか。
やることは多い。

 『個の原理について』の前文訳をいま用意している。どこかに載せられたらとても良い。できなかったらネットにアップロードでもするつもり。

 いろんな方が訳の検討を手伝ってくださるそうです。大変恐縮です。どうもありがとうございます。

2015年5月31日日曜日

読書会のご案内

2016 年 12 月 8 日更新。

 現在、私の方で開催している読書会のうち二つに関して、宣伝も兼ねてここに詳細を記しておきますので、気になったものがあれば下記の連絡先までお願いします。

- 個体化研究会

個体化研究会では、中世において盛んに議論された「個体化の原理」を扱う各哲学者のテクストを原典で読み、そこに現れている多様な議論を理解していくことを目的としています。
 Francisco Suárez, Disputationes Metaphysicae, V をはじめから読んでいます。

・日時:参加者で相談して決定致します。水曜日になることが多いです。
・場所:本郷キャンパス文学部二号館の三友館にて。参加希望の方で、場所がわからない方は以下の連絡先までお願いします。
・テクスト:参加希望者に配布致します。

- スコトゥス読書会

 こちらの会では、後期スコラ哲学の代表人物の一人であるヨハネス・ドゥンス・スコトゥスのテクストを読んでいきます。
 Johannes Duns Scotus, Ordinatio II, d. 3, p. 1, q. 7 を Vatican 版全集で読んでいきます。テクストをお持ちでない方はこちらで用意いたします。内容は、天使に関する個体化の問題となっております。

 毎回だいたい Vatican 版で 3, 4 ページほど進むことを予定しております。

・日時:参加者で相談して決定します。
・場所:オンラインで開催予定です。
・テクスト:参加希望者に配布致します。

以上の会に関心がおありの方は、以下のアドレスまでご連絡下さい。お手数ですが、連絡の際はアドレスの ( ・`ω・´) を @ に変えて送信ください。

七草しろ
nanakusa.shiro ( ・`ω・´) gmail.com

2015年3月17日火曜日

realitas 概念についての覚え書き

 中世の哲学には理解し難い用語が山のように出てくる。その中の一つが realitas である。これは「事象性」とか「実在性」とかといった訳が与えられることが多い。英語に直訳すると reality となるが、中世哲学の文脈ではそのまま「リアリティ」と訳すとよくわからないことが多い。いくつかの文献の中で出会われた realitas 概念について、すこし纏めておこうと思う。

 山内志朗『存在の一犠牲を求めて』におさめられた「スコトゥス哲学・用語解説」における「事象性 (realitas)」の項には次のようにある。
……事象 (res) の抽象名詞だが、そのニュアンスは翻訳不可能である。「事象成分」「実在性」などといった訳語もある。「実在性」と捉えると誤解しやすい。実在性やリアリティという含意はあまりなく、そういうものの手前にあるものが realitas である。「事象を構成する規定性」、平たくいえば「性質」のことである。……
「ある事象 res を構成する規定的部分 」のように理解可能であると思われる。スコトゥスの実際の語り口をすこし見てみよう。以下では「存在性」 entitas ということばが使われているが、八木雄二によれば entitas と realitas はほぼ同じ意味で使われる(八木雄二『スコトゥスの存在理解』、付録 p. 35, 註 118 参照)。
複合体が本性であるかぎりにおいて、(それによって形相的に〈このもの〉となる)個的存在性を含まないように、質料も「本性であるかぎり」(それによって〈この〉質料となる)個的存在性を含まず、また、形相も「本性であるかぎり」はそうした存在性を含まない。 (Duns Scotus, Ordinatio II, d. 3, p. 1, q. 6, n. 187).
スコトゥスによる、質料的実体の個体化をめぐる議論のほぼ結論部で提示される一節である。ここで述べられている内容に関しての詳細な説明は省くとして、簡単にいえば、「個的存在性を含んでいるものは個別者である」という文脈で語られている。そのとき、個的存在性は個別者という事象 res を構成する部分であると考えられることになろう。

 最近読んだ本で、すこし気になったところも纏めておく。
たんに「思考に由来する〈もの〉」にすぎないものは決してこの世界に現実に存在せず、現実に存在しうる可能性もない〈もの〉である。そのような〈もの〉は知性の対象とはならず、ただ想像力にのみ依存する虚構であり、「現実性」 (realitas) を持たないのである。また、そのような〈もの〉は有でもない。すなわち、「有性」 (entitas) を持たないものである。(加藤雅人『ガンのヘンリクスの哲学』、 p. 227. )
ここでの用法は、やや「リアリティ」に寄っているように思われる。出典も併せてみておこう。
... res sive aliquid, sic consideratum ut nihil sit ei oppositum nisi purum nihil, quod nec est nec natum est esse, neque in re extra intellectum, neque etiam in conceptu alicuius intellectus, quia nihil est natum movere intellectum nisi habens rationem alicuius realitatis. (Henricus de Gandavo, Quod. VII, qq. 1 et 2 (ed. G. A. Wilson, 1991, pp. 26-27). )
このヘンリクスのテクストは加藤雅人、前掲書における付録 p. 86, 註 66 より引用した。以下に筆者による訳を付しておく。語彙レベル・概念レベルで様々に誤りがあろうので、そのときは指摘いただきたい。
〈もの〉ないし或るものは、次のように考察されたものである。すなわち、純粋な無 purum nihil を除いては何者もそれに対立しないものである。その純粋な無とは、在らず、在らしめず、知性の外なる事象においても、さらに或る知性に属する概念においても〔無い〕。なぜなら、或る事象性という根拠 ratio 無くしては知性を動かすということは決して生じないからである。
ここでの ratio をどう解するかによってかなり文意が変わりうるであろうが、上で引用した加藤 op. cit. の論脈に寄せて、とりあえず根拠と訳した。 ここで〈もの〉といわれる res は端的な無、純粋な無と対立する概念である。そして、加藤によれば、純粋な無として理解されるのが、ヘンリクスによる〈もの〉の三つの区分のうち「思考に由来する〈もの〉」であり (Ibid. pp. 225f.), その具体例として「金の山」とか「山羊鹿」とかといった「虚構的概念」の例が挙げられている。こうしたものは realitas を持たず、また知性の対象にもならない (Ibid. p. 226.). ヘンリクスの枠組みにおいて realitas を有するのは、加藤によれば、「理念に由来する〈もの〉」と「現実に存在する〈もの〉」である。後者については文字通り現実に存在するものであり、前者は何性 quidditas と呼ばれ、スコトゥスの枠組みに引き寄せた時、共通本性 natura communis と呼ばれるものと解釈してよいと考えられるものであろう(何性に、何らかの仕方でその存在の根拠を付与しているというのはやや興味深いと思われる)。realitas 概念を考える際に、「思考に由来する〈もの〉」と「理念に由来する〈もの〉」との境界を考えることは有益なことであるだろう。

 「思考に由来する〈もの〉」の例を見てみれば、「虚構的」と言われつつも、それを「理念に由来する〈もの〉」と切り分けるうまい視点は見つけ難い。「金の山」とか「山羊鹿」とかいった概念は、端的に矛盾しているわけではない(こうした事柄について、哲学史のあちこちで様々に語られているのであろうが、不勉強と貧弱な記憶力のせいでこれを書いている際にはうまい解決があったかどうか定かではない。ヘンリクスのここの記述を理解するために、いま二つの解釈を有している。 1. 「金の山」とか「山羊鹿」とかいった概念には、実は矛盾が含まれているのだ、という解釈。例えば、「山羊」と「鹿」は種が異なるのであるから、それら両者の種の特徴を備えた一つの種は考えられない、ということ。とはいえ、これはあまりうまくいっていないように見える。 2. なんであれ、「思考に由来する」と言われるものはそもそも realitas を有さない。たとえば、鉛筆やハサミといった概念も、それが「思考に由来する」限りにおいては realitas を有していない。ただし、鉛筆やハサミといった概念は、私達が現実世界において出会うことのできる個物から得ることができるので、そうした側面からそれらの realitas を十分に考えることができる、ということである。いずれにせよ、ヘンリクスのテクストに基づいて理解されねばならない……のだから読まねばならない!)。
 ヘンリクスが「理念に由来する〈もの〉」は可能的に存在すると述べているといわれることとあわせて考えると、「思考に由来する〈もの〉」に realitas が無いというのは、それが可能的にであれ存在することはないということになろう。ここでは、 realitas が「存在の根拠」のように働いているように思われる。あるいは純粋な無に対抗する力のようなものか。ここではたしかに「リアリティ」の響きが感じられるような気がする。はじめに引いた山内による理解の枠から、すこしはみ出るような部分もあるように思われる。

 雑駁にいろいろと書き並べてみたが、 realitas 概念はやっぱりよくわからない。

2015年1月10日土曜日

ドゥンス・スコトゥス『命題集註解』第二巻第三区分第一部第四問に関する覚え書き

 スコトゥスは Ordinatio II, d. 3, p. 1, q. 4 の冒頭で挙げられるボエティウスの説、すなわち、相異なる複数のものは同時に同じ場所を占めることができない、ということから、それを個別者相互の区別の根拠とする説を論駁する。だが、ボエティウスの説は直観にかなったものであるといえるし、哲学史上、このような思考をもって個別者の区別がなされることも多かっただろう。この論駁はどのようにして可能になるのだろうか。
 Ordinatio における個体化の原理に関する議論において、スコトゥスは附帯性一般を個体化の原理から退ける。附帯性一般とは、質、量等々の実体に後続するカテゴリーを指していると考えてよい。したがって、その議論からでは当然、附帯性として扱われる「位置」が個体化の原理足り得ない。実体は附帯性の基体であり、基体であるかぎりは「これ」であって、附帯性が在る前にはかならず実体は個体化されていなければならないからである。ではこの実体の先行性による「附帯性は個体化の原理ではない」という議論をいかに考えるべきか。そのことについていくつか思ったことがあるのでそれを書き留めておく。

 そのために、まず同第二問において批判される、ヘンリクスによる「二重の否定」による個体化の説を紹介する。「二重の否定」とは、「或る〈この〉ものが〈あれ〉でない」という〈あれ〉に対する否定と、「〈これ〉が分割されない」という〈これ〉に対する否定とからなる原理で、「〈あれ〉でなく、分割されない」というかぎりで〈これ〉は〈これ〉であり、〈これ〉以外のものではない、ということから個体化の原理を捉える説である。
 これに対してスコトゥスは、雑駁にいえば、「〈これ〉が分割されない」ということによっては個体足り得ない、と指摘する。どういうことかといえば、個体とは分割に矛盾するようなものでなくてはならず、単に「分割されない」ということだけでは、そうした「分割に対する矛盾」は引き出せないからである。そこで例に挙げられるのが「盲目な人」である。「盲目な人」にとって「視ること」は否定されているが、「盲目な人」に「視ること」が矛盾するわけではない。手術によって視力を取り戻すことも可能であろう。「盲目な人」を個別者に、「視ること」を分割に置き換えればスコトゥスの論旨は理解できよう。
 ところで、二重の否定説への批判は、もう一方、すなわち「〈これ〉が〈あれ〉でない」という方にも向けられる。そこでの議論を簡潔にまとめれば、「否定によってソクラテスが在り、否定によってプラトンが在るが、おなじ性質の否定によってなぜ二つの区別された個別者が得られるのか」というものである。否定はその構造上「〈これ〉は〈あれ〉でない」という性質しかもっておらず、それではソクラテスとプラトンとの区別には充分ではない、という(「〈これ〉が〈あれ〉でない」という性質によって区別するならば、「ソクラテスはプラトンではない」と「プラトンはソクラテスではない」ということによって相互に区別できそうであるが、おそらくスコトゥスのいいたいのは「ソクラテスはプラトンではない」と「プラトンはソクラテスではない」とがそれぞれソクラテスとプラトンとに帰属するような場がさらに求められる、ということであろうか)。
 ところで、『形而上学問題集』の個体化論を扱う第七巻第十三問においては、後者の議論、すなわち「〈これ〉が〈あれ〉ではない」ということに対する批判は別段加えられることはない。それは、〈これ〉と〈あれ〉とが相異している場では、〈これ〉は〈あれ〉でないというしかたで「同一性の否定」が介入せざるを得ないからであろう。もちろん上段落の最後に、括弧内で補足したように、スコトゥスは単に「同一性の否定」では満足しない。スコトゥスにおいては、最終的に「分割への矛盾」と「同一性の否定の根拠」とにまで至らねばならない。したがって、「〈これ〉が〈あれ〉でない」という否定に関しては、そうした結果をもたらす根拠を追求することがスコトゥスの個体化論の探求であったのである。そういう意味で、ヘンリクスの立場をより厳密化した態度で探求を行っていたといえるのではないだろうか。

 さて、冒頭の位置の相異の問題に戻るが、スコトゥスによる批判は、この「二重の否定」説への批判の、とくに後者、すなわち「〈これ〉が〈あれ〉ではない」という否定への批判と同様の構造を持っていると言えるであろう。すなわち、現実に在るものは、実際に〈これ〉が〈あれ〉でないのと同様に、〈これ〉と〈あれ〉という二つの相異なるものが同じ位置を占めることは確かに不可能である。このことは間違いがない。しかし、スコトゥスにとっては、位置が個別者との関わりで、「〈これ〉が〈この〉位置にある」とか「〈あれ〉が〈あの〉位置にある」とかいうのには、それぞれの位置が〈これ〉と〈あれ〉とに帰属するような場が求められねばならないのであろう。二つのものがそれぞれの位置を占め、同じ位置を占めることが無いというのは、いわば「同じ位置の否定」でしかなく、スコトゥスにとっては、その否定を可能たらしめる「同じ位置の否定の根拠」にまでゆかねばならない。この意味で「同一性の否定」も「同じ位置の否定」も、スコトゥスの個体化の原理のいわば「結果」でしかなく、〈これ〉と〈あれ〉という二つのものがそれぞれとしていわば「区別され始める」ようなラインに立つものではないかぎりで、「二重の否定」や「位置の相異」は個体化の原理としては否定されるべきものであったのであろう。

2014年11月23日日曜日

個別、これ、あれ

 肩肘はらずに、いくつかのことをぽろぽろとこぼすだけでもいいのかもしれない。

« sed unitatem signatam (ut 'haec'), .... » (Duns Scotus, Ord. II, d. 3, p. 1, q. 4, n. 74)
そうではなく、(「これ」として)指し示される一性を……。
« igitur nullo tali est formaliter 'haec substantia', hac singularitate, signata. » (ibid. n. 77)
したがって、そうした〔附帯性の〕いかなるものによっても、実体は形相的に、この単一性によって、すなわち指し示されることによって「この実体」とはならないのである。
指をさして「これ」と言うことのできるもの、「これ」と「あれ」は違っているということ。たとえば「この鉛筆」は「あの鉛筆」とは違う。間違うことはあっても、それらは違うものでなければならない。「この人」と「あの人」がたとえ似ていたとしても、その人達が決しておなじ人ではないように。

 スコトゥスはそうした「これ」と「あれ」の差異の原理を付帯的なものには認めていない。あの人は背が高くて、顔かたちが良くて、声がどうで知性がどうで、云々。こうしたことは他の人との区別の最終的な根拠にはならないのである。顔がまったく同じであっても、彼らは区別されている。ほんとうに?
 人は同じであってはならない。モノは同じであってはならない。動物は同じであってはならない。このミケはこのミケで、あのタマとは違う。ライプニッツが拾い上げた二枚の葉は、たとえ似ていても同じではない。区別できるところが一切ないところまでいって、モノは同じであるといえる。同じものは、実在の次元にはなにもない。
 こぼすだけでは何も言ったことにはならないと、書いてしまってから反省した。

 すこし別な話。

« quia non est intelligibile quod idem generet se (etiam in divinis persona non generat se). » (ibid., n. 110)
というのも、同じものが自らを生成することは理解不可能であるからである(さらに神的なものにおいても、ペルソナは自らを生成しない)。
事物が「自己原因」であることは理解不能であるとスコトゥスが批判した箇所であるが、デカルトやスピノザはこの批判をどう乗り越えたのか。スコトゥスからデカルトまでに流れた時間は長い。