2015年5月31日日曜日

読書会のご案内

2016 年 12 月 8 日更新。

 現在、私の方で開催している読書会のうち二つに関して、宣伝も兼ねてここに詳細を記しておきますので、気になったものがあれば下記の連絡先までお願いします。

- 個体化研究会

個体化研究会では、中世において盛んに議論された「個体化の原理」を扱う各哲学者のテクストを原典で読み、そこに現れている多様な議論を理解していくことを目的としています。
 Francisco Suárez, Disputationes Metaphysicae, V をはじめから読んでいます。

・日時:参加者で相談して決定致します。水曜日になることが多いです。
・場所:本郷キャンパス文学部二号館の三友館にて。参加希望の方で、場所がわからない方は以下の連絡先までお願いします。
・テクスト:参加希望者に配布致します。

- スコトゥス読書会

 こちらの会では、後期スコラ哲学の代表人物の一人であるヨハネス・ドゥンス・スコトゥスのテクストを読んでいきます。
 Johannes Duns Scotus, Ordinatio II, d. 3, p. 1, q. 7 を Vatican 版全集で読んでいきます。テクストをお持ちでない方はこちらで用意いたします。内容は、天使に関する個体化の問題となっております。

 毎回だいたい Vatican 版で 3, 4 ページほど進むことを予定しております。

・日時:参加者で相談して決定します。
・場所:オンラインで開催予定です。
・テクスト:参加希望者に配布致します。

以上の会に関心がおありの方は、以下のアドレスまでご連絡下さい。お手数ですが、連絡の際はアドレスの ( ・`ω・´) を @ に変えて送信ください。

七草しろ
nanakusa.shiro ( ・`ω・´) gmail.com

2015年3月17日火曜日

realitas 概念についての覚え書き

 中世の哲学には理解し難い用語が山のように出てくる。その中の一つが realitas である。これは「事象性」とか「実在性」とかといった訳が与えられることが多い。英語に直訳すると reality となるが、中世哲学の文脈ではそのまま「リアリティ」と訳すとよくわからないことが多い。いくつかの文献の中で出会われた realitas 概念について、すこし纏めておこうと思う。

 山内志朗『存在の一犠牲を求めて』におさめられた「スコトゥス哲学・用語解説」における「事象性 (realitas)」の項には次のようにある。
……事象 (res) の抽象名詞だが、そのニュアンスは翻訳不可能である。「事象成分」「実在性」などといった訳語もある。「実在性」と捉えると誤解しやすい。実在性やリアリティという含意はあまりなく、そういうものの手前にあるものが realitas である。「事象を構成する規定性」、平たくいえば「性質」のことである。……
「ある事象 res を構成する規定的部分 」のように理解可能であると思われる。スコトゥスの実際の語り口をすこし見てみよう。以下では「存在性」 entitas ということばが使われているが、八木雄二によれば entitas と realitas はほぼ同じ意味で使われる(八木雄二『スコトゥスの存在理解』、付録 p. 35, 註 118 参照)。
複合体が本性であるかぎりにおいて、(それによって形相的に〈このもの〉となる)個的存在性を含まないように、質料も「本性であるかぎり」(それによって〈この〉質料となる)個的存在性を含まず、また、形相も「本性であるかぎり」はそうした存在性を含まない。 (Duns Scotus, Ordinatio II, d. 3, p. 1, q. 6, n. 187).
スコトゥスによる、質料的実体の個体化をめぐる議論のほぼ結論部で提示される一節である。ここで述べられている内容に関しての詳細な説明は省くとして、簡単にいえば、「個的存在性を含んでいるものは個別者である」という文脈で語られている。そのとき、個的存在性は個別者という事象 res を構成する部分であると考えられることになろう。

 最近読んだ本で、すこし気になったところも纏めておく。
たんに「思考に由来する〈もの〉」にすぎないものは決してこの世界に現実に存在せず、現実に存在しうる可能性もない〈もの〉である。そのような〈もの〉は知性の対象とはならず、ただ想像力にのみ依存する虚構であり、「現実性」 (realitas) を持たないのである。また、そのような〈もの〉は有でもない。すなわち、「有性」 (entitas) を持たないものである。(加藤雅人『ガンのヘンリクスの哲学』、 p. 227. )
ここでの用法は、やや「リアリティ」に寄っているように思われる。出典も併せてみておこう。
... res sive aliquid, sic consideratum ut nihil sit ei oppositum nisi purum nihil, quod nec est nec natum est esse, neque in re extra intellectum, neque etiam in conceptu alicuius intellectus, quia nihil est natum movere intellectum nisi habens rationem alicuius realitatis. (Henricus de Gandavo, Quod. VII, qq. 1 et 2 (ed. G. A. Wilson, 1991, pp. 26-27). )
このヘンリクスのテクストは加藤雅人、前掲書における付録 p. 86, 註 66 より引用した。以下に筆者による訳を付しておく。語彙レベル・概念レベルで様々に誤りがあろうので、そのときは指摘いただきたい。
〈もの〉ないし或るものは、次のように考察されたものである。すなわち、純粋な無 purum nihil を除いては何者もそれに対立しないものである。その純粋な無とは、在らず、在らしめず、知性の外なる事象においても、さらに或る知性に属する概念においても〔無い〕。なぜなら、或る事象性という根拠 ratio 無くしては知性を動かすということは決して生じないからである。
ここでの ratio をどう解するかによってかなり文意が変わりうるであろうが、上で引用した加藤 op. cit. の論脈に寄せて、とりあえず根拠と訳した。 ここで〈もの〉といわれる res は端的な無、純粋な無と対立する概念である。そして、加藤によれば、純粋な無として理解されるのが、ヘンリクスによる〈もの〉の三つの区分のうち「思考に由来する〈もの〉」であり (Ibid. pp. 225f.), その具体例として「金の山」とか「山羊鹿」とかといった「虚構的概念」の例が挙げられている。こうしたものは realitas を持たず、また知性の対象にもならない (Ibid. p. 226.). ヘンリクスの枠組みにおいて realitas を有するのは、加藤によれば、「理念に由来する〈もの〉」と「現実に存在する〈もの〉」である。後者については文字通り現実に存在するものであり、前者は何性 quidditas と呼ばれ、スコトゥスの枠組みに引き寄せた時、共通本性 natura communis と呼ばれるものと解釈してよいと考えられるものであろう(何性に、何らかの仕方でその存在の根拠を付与しているというのはやや興味深いと思われる)。realitas 概念を考える際に、「思考に由来する〈もの〉」と「理念に由来する〈もの〉」との境界を考えることは有益なことであるだろう。

 「思考に由来する〈もの〉」の例を見てみれば、「虚構的」と言われつつも、それを「理念に由来する〈もの〉」と切り分けるうまい視点は見つけ難い。「金の山」とか「山羊鹿」とかいった概念は、端的に矛盾しているわけではない(こうした事柄について、哲学史のあちこちで様々に語られているのであろうが、不勉強と貧弱な記憶力のせいでこれを書いている際にはうまい解決があったかどうか定かではない。ヘンリクスのここの記述を理解するために、いま二つの解釈を有している。 1. 「金の山」とか「山羊鹿」とかいった概念には、実は矛盾が含まれているのだ、という解釈。例えば、「山羊」と「鹿」は種が異なるのであるから、それら両者の種の特徴を備えた一つの種は考えられない、ということ。とはいえ、これはあまりうまくいっていないように見える。 2. なんであれ、「思考に由来する」と言われるものはそもそも realitas を有さない。たとえば、鉛筆やハサミといった概念も、それが「思考に由来する」限りにおいては realitas を有していない。ただし、鉛筆やハサミといった概念は、私達が現実世界において出会うことのできる個物から得ることができるので、そうした側面からそれらの realitas を十分に考えることができる、ということである。いずれにせよ、ヘンリクスのテクストに基づいて理解されねばならない……のだから読まねばならない!)。
 ヘンリクスが「理念に由来する〈もの〉」は可能的に存在すると述べているといわれることとあわせて考えると、「思考に由来する〈もの〉」に realitas が無いというのは、それが可能的にであれ存在することはないということになろう。ここでは、 realitas が「存在の根拠」のように働いているように思われる。あるいは純粋な無に対抗する力のようなものか。ここではたしかに「リアリティ」の響きが感じられるような気がする。はじめに引いた山内による理解の枠から、すこしはみ出るような部分もあるように思われる。

 雑駁にいろいろと書き並べてみたが、 realitas 概念はやっぱりよくわからない。

2015年1月10日土曜日

ドゥンス・スコトゥス『命題集註解』第二巻第三区分第一部第四問に関する覚え書き

 スコトゥスは Ordinatio II, d. 3, p. 1, q. 4 の冒頭で挙げられるボエティウスの説、すなわち、相異なる複数のものは同時に同じ場所を占めることができない、ということから、それを個別者相互の区別の根拠とする説を論駁する。だが、ボエティウスの説は直観にかなったものであるといえるし、哲学史上、このような思考をもって個別者の区別がなされることも多かっただろう。この論駁はどのようにして可能になるのだろうか。
 Ordinatio における個体化の原理に関する議論において、スコトゥスは附帯性一般を個体化の原理から退ける。附帯性一般とは、質、量等々の実体に後続するカテゴリーを指していると考えてよい。したがって、その議論からでは当然、附帯性として扱われる「位置」が個体化の原理足り得ない。実体は附帯性の基体であり、基体であるかぎりは「これ」であって、附帯性が在る前にはかならず実体は個体化されていなければならないからである。ではこの実体の先行性による「附帯性は個体化の原理ではない」という議論をいかに考えるべきか。そのことについていくつか思ったことがあるのでそれを書き留めておく。

 そのために、まず同第二問において批判される、ヘンリクスによる「二重の否定」による個体化の説を紹介する。「二重の否定」とは、「或る〈この〉ものが〈あれ〉でない」という〈あれ〉に対する否定と、「〈これ〉が分割されない」という〈これ〉に対する否定とからなる原理で、「〈あれ〉でなく、分割されない」というかぎりで〈これ〉は〈これ〉であり、〈これ〉以外のものではない、ということから個体化の原理を捉える説である。
 これに対してスコトゥスは、雑駁にいえば、「〈これ〉が分割されない」ということによっては個体足り得ない、と指摘する。どういうことかといえば、個体とは分割に矛盾するようなものでなくてはならず、単に「分割されない」ということだけでは、そうした「分割に対する矛盾」は引き出せないからである。そこで例に挙げられるのが「盲目な人」である。「盲目な人」にとって「視ること」は否定されているが、「盲目な人」に「視ること」が矛盾するわけではない。手術によって視力を取り戻すことも可能であろう。「盲目な人」を個別者に、「視ること」を分割に置き換えればスコトゥスの論旨は理解できよう。
 ところで、二重の否定説への批判は、もう一方、すなわち「〈これ〉が〈あれ〉でない」という方にも向けられる。そこでの議論を簡潔にまとめれば、「否定によってソクラテスが在り、否定によってプラトンが在るが、おなじ性質の否定によってなぜ二つの区別された個別者が得られるのか」というものである。否定はその構造上「〈これ〉は〈あれ〉でない」という性質しかもっておらず、それではソクラテスとプラトンとの区別には充分ではない、という(「〈これ〉が〈あれ〉でない」という性質によって区別するならば、「ソクラテスはプラトンではない」と「プラトンはソクラテスではない」ということによって相互に区別できそうであるが、おそらくスコトゥスのいいたいのは「ソクラテスはプラトンではない」と「プラトンはソクラテスではない」とがそれぞれソクラテスとプラトンとに帰属するような場がさらに求められる、ということであろうか)。
 ところで、『形而上学問題集』の個体化論を扱う第七巻第十三問においては、後者の議論、すなわち「〈これ〉が〈あれ〉ではない」ということに対する批判は別段加えられることはない。それは、〈これ〉と〈あれ〉とが相異している場では、〈これ〉は〈あれ〉でないというしかたで「同一性の否定」が介入せざるを得ないからであろう。もちろん上段落の最後に、括弧内で補足したように、スコトゥスは単に「同一性の否定」では満足しない。スコトゥスにおいては、最終的に「分割への矛盾」と「同一性の否定の根拠」とにまで至らねばならない。したがって、「〈これ〉が〈あれ〉でない」という否定に関しては、そうした結果をもたらす根拠を追求することがスコトゥスの個体化論の探求であったのである。そういう意味で、ヘンリクスの立場をより厳密化した態度で探求を行っていたといえるのではないだろうか。

 さて、冒頭の位置の相異の問題に戻るが、スコトゥスによる批判は、この「二重の否定」説への批判の、とくに後者、すなわち「〈これ〉が〈あれ〉ではない」という否定への批判と同様の構造を持っていると言えるであろう。すなわち、現実に在るものは、実際に〈これ〉が〈あれ〉でないのと同様に、〈これ〉と〈あれ〉という二つの相異なるものが同じ位置を占めることは確かに不可能である。このことは間違いがない。しかし、スコトゥスにとっては、位置が個別者との関わりで、「〈これ〉が〈この〉位置にある」とか「〈あれ〉が〈あの〉位置にある」とかいうのには、それぞれの位置が〈これ〉と〈あれ〉とに帰属するような場が求められねばならないのであろう。二つのものがそれぞれの位置を占め、同じ位置を占めることが無いというのは、いわば「同じ位置の否定」でしかなく、スコトゥスにとっては、その否定を可能たらしめる「同じ位置の否定の根拠」にまでゆかねばならない。この意味で「同一性の否定」も「同じ位置の否定」も、スコトゥスの個体化の原理のいわば「結果」でしかなく、〈これ〉と〈あれ〉という二つのものがそれぞれとしていわば「区別され始める」ようなラインに立つものではないかぎりで、「二重の否定」や「位置の相異」は個体化の原理としては否定されるべきものであったのであろう。

2014年11月23日日曜日

個別、これ、あれ

 肩肘はらずに、いくつかのことをぽろぽろとこぼすだけでもいいのかもしれない。

« sed unitatem signatam (ut 'haec'), .... » (Duns Scotus, Ord. II, d. 3, p. 1, q. 4, n. 74)
そうではなく、(「これ」として)指し示される一性を……。
« igitur nullo tali est formaliter 'haec substantia', hac singularitate, signata. » (ibid. n. 77)
したがって、そうした〔附帯性の〕いかなるものによっても、実体は形相的に、この単一性によって、すなわち指し示されることによって「この実体」とはならないのである。
指をさして「これ」と言うことのできるもの、「これ」と「あれ」は違っているということ。たとえば「この鉛筆」は「あの鉛筆」とは違う。間違うことはあっても、それらは違うものでなければならない。「この人」と「あの人」がたとえ似ていたとしても、その人達が決しておなじ人ではないように。

 スコトゥスはそうした「これ」と「あれ」の差異の原理を付帯的なものには認めていない。あの人は背が高くて、顔かたちが良くて、声がどうで知性がどうで、云々。こうしたことは他の人との区別の最終的な根拠にはならないのである。顔がまったく同じであっても、彼らは区別されている。ほんとうに?
 人は同じであってはならない。モノは同じであってはならない。動物は同じであってはならない。このミケはこのミケで、あのタマとは違う。ライプニッツが拾い上げた二枚の葉は、たとえ似ていても同じではない。区別できるところが一切ないところまでいって、モノは同じであるといえる。同じものは、実在の次元にはなにもない。
 こぼすだけでは何も言ったことにはならないと、書いてしまってから反省した。

 すこし別な話。

« quia non est intelligibile quod idem generet se (etiam in divinis persona non generat se). » (ibid., n. 110)
というのも、同じものが自らを生成することは理解不可能であるからである(さらに神的なものにおいても、ペルソナは自らを生成しない)。
事物が「自己原因」であることは理解不能であるとスコトゥスが批判した箇所であるが、デカルトやスピノザはこの批判をどう乗り越えたのか。スコトゥスからデカルトまでに流れた時間は長い。

2014年10月27日月曜日

ドゥンス・スコトゥス全集を買う

 後期スコラの代表人物であるヨハネス・ドゥンス・スコトゥスの全集はインターネットで購入することができます。ところが購入できるページがイタリア語で、商品到着までの詳しい流れが分からなかったということもあったので、個人的なメモとして、さらにはこれからスコトゥスを読みたいと思った方のために日本語で纏めておこうと思います。

 購入は以下のページでできます。
 Frati Quaracchi - Collegio San Bonaventura -

 購入にはアカウントが必要になります。まずは住所・氏名等々の必要な情報を登録フォームに入力してアカウントを取得します。アカウントが正しく取得できると、ログイン中に、ページ左端の CATEGORIE の上に IL MIO ACCOUNT というカラムが表示されるようになります。そこでいつでも自分の登録情報を修正することができます。

 実際に商品をカートに入れると、ページ右端の CARRELLO に商品代金が表示されます。ほしい商品を入れ終えたら Check out を押して詳しい購入手続きをしていきます。購入手続きが完了すると、自動でメールが二通配信されてきます。すべてイタリア語で書かれていますが、買った金額と送付先住所の確認が為されます。
 ただし購入にはクレジットカードが使えず、口座宛に指定された金額を振り込まねばなりません。

 ここで一つ大きな問題があって、おそらくこのページはあまり機能していないのです。私は 2014 年 9 月 18 日に注文したのですが、振込先と最終的な振込金額が指定されたメールが届いたのはそれから一週間以上経った 9 月 29 日でした。(そのメールは英語でした。)それまでは、どうやってお金を振り込めばいいのだろう、と再注文してみたり、ページのあちこちを探しました。待たねばならないそうです。そして 10 月 2 日に指定された金額を指定された口座に振り込みます。振込は郵便局で行いました。口座を持っていなくてもできるのが便利です。振込手数料も比較的安いと思います。振り込む際には、手数料とは別に、口座登記料といって余分に 2 ユーロが必要でした。
 そしておよそ三週間後の 10 月 26 日に私の手元にスコトゥス全集が届きました。注文からは一ヶ月以上経ちました。けっきょく振込から手元に届くまでに、一切連絡は無く、振込確認のメールが届くとばかり思っていたものですから、金額が不足していたのか、それとも振込先の口座を間違えたのか、不安になってサイト経由で 10 月 17 日にメッセージを送りました。(が、結局返信はありませんでした。)

 ほんとうに中世のような時間のゆっくりとした流れの中で本を買うことができたのは非常に珍しい経験だとおもいます(もちろん中世だともっと遅かったでしょう。もしかしたら届かなかったかも)。ですが、急いで読みたい場合もあると思いますし、注文するときは早め早めにしたほうがいいかもしれません。

2014年10月22日水曜日

距離、近さと遠さ

 すこし日があいてしまった。呆けながらもいくつか本を読んでいた。卒業論文の執筆を始めている。四年間は短い。部分は全体よりも小さい。ゆえに、この冬はさらに短い。

 距離があるというのは幸せなことかもしれない。距離の構造が入っているからこそ、私達は二つの間の距離を測ることができる。私と太陽の距離は測ることができる。私と、誰かの距離も、ものさしを継ぎ合わせれば、たとえ遠くとも。
 比喩的な意味においても、距離は考えられる。私と、中世後期の哲学という舞台で活躍した彼はおよそ 600 年の隔たりを持っている。同じ尺度の上に立つことができるから。何かと何かの距離を測ることができるのは、私とあなたとの間に、なにかある共通の尺度、もっといえば共通なものがそなえられているからである。長さであり、時間であり、はたまた言語、人種、性別……。緑色の文字を見るとき、私もまた距離を感じ、同じ尺度の上に立っていることを思う。誰かと声を交わす時にもまた。

 哲学のことを少しだけ。
 私は中世スコラ哲学のことを卒業論文で扱っている。大学でデカルトを読み、授業でスピノザを聞き、友人たちとライプニッツを読んだ。あるいは家に篭って、今年の夏が盛り始める前に訳が出たジルソンのトマス・アクィナスについての研究を。彼らの思想において、私には神と被造物の距離が異なるように思える。トマスについては、その著作に触れたことが無いので大きいことは言えないが、デカルトもライプニッツも、強い反実仮想であれ「私が神になってしまう」ような事態を想定している。距離がある。トマスについては、その基本的な思想しか述べられないが、存在するものは「在りて在るもの」である神からその存在 esse を分有するかたちで在る。あるいは、在るかぎりで共通かもしれない。だがトマスによれば、それは類比的にあるに過ぎない。それでは、「存在それ自身」と規定される神と、その存在を分有している存在するものの距離や如何に?

 近づきすぎてはよく見えない。かといって離れすぎてはよく分からない。

2014年7月21日月曜日

quantum ということばについて

« Creationem rerum insinuans Scriptura » ... etc. . Postquam Magister in primo libro determinavit de Deo quantum ad rarionem suae naturalis perfectionis, ... .
引用は Duns Scotus の Ordinatio II, d. 1, q. 1 に挿入された文章から。引用部冒頭のギュメによって括られたのは、 Lombardus からの引用だそうだ。そこで、第二文の Magister は Lombardus を指していると考えられる。ここを読む上で躓いたのが quantum (ad) ... という表現である。いちおういろいろと調べてみたので、私と同様の躓きをした人のためにメモしておこうと思う。

 結論からいえば大したことはなく、大きめ辞書を引けば例文も出てくる。 Twitter で、フォロワーからの指摘もあった。ありがたい世の中である。 Perseus digital library には Word study tool というものがあり、そこで quantum を引けばこのようになる。インターネット上で Lewis & Short を引くことができる。非常に便利。 L & S を展開して、 "quantum ad" で検索すれば三件引っかかった。これはすごい。
“denegabit quantum quantum ad eum erit delatum,” Plaut. Poen. 3, 4, 28 
“quantum ad Pirithoum, Phaedra pudica fuit,” as far as concerned, with respect to, Ov. A. A. 1, 744
“quantum ad jus attinet,” Sen. Contr. 5, 34, 16; 3, 16, 1.
どうやら古典期からいくつかの用法があるようだ。 一つ目はすこし違って、 quantum quantum となっている。分かち書きすることがあるのかどうかは知らないが、水谷智洋編の『羅和辞典』によれば、 quantusquantus = quantuscumque で「いかに大きく[小さく]ても、どれほどの量[程度]でも」とある。文脈を追うほどの能力が無いので、ここでは追求はとめておく。

 おそらく、求めている意味は二つ目の例文のように思われる。"quantum ad" で検索していると、多くの用例が見つかった。近い時代では、トマス・アクィナスのものがあったので、それも引用しておこうとおもう。
Et licet indiciduatio eius ex corpore occasionaliter dependeat quantum ad sui inchoationem, ... .
 De Ente et Essentia の第五章からの引用。『中世思想原典集成 第十四巻』におさめられた須藤和夫訳では「……〔人間の〕魂の固体化はその発端に関して、……」とある。上の二つ目の例文と同じような意味の訳例が見つけられた。

 上記『羅和辞典』によると、これに近そうなものは「…の限り」となっているものであろうか。例文には「"quantum ego existimare possum," 私が判断できるかぎりでは」、「"quantum in te est," あなたに関する限り」とだけある。すこしばかり上の文脈に合わせるのは難しそうだと思った。

 もう一度、問題となった文章を見てみる。
« Creationem rerum insinuans Scriptura » ... etc. . Postquam Magister in primo libro determinavit de Deo quantum ad rarionem suae naturalis perfectionis, ... .
「『事物の想像を記述すれば、聖書は……』云々。ロンバルドゥスが第一巻で、神について、彼の自然的完全性の ratio に関して規定したあとで……。」という訳になるだろうか。