その講義においては、おもに編曲という観点が中心となっていた。つまり、編曲においては何かあるオリジナル作品が存在して、そこからの一種のコピーないしは別の作品としての創作として捉えられがちであるが、そうした原曲と編曲の境界線のようなものが明確に引く事が出来るのかどうか、ということが問題とされた。
そもそも楽譜は、明確に演奏法を定めたものであるかどうかすら疑わしいという。その際に Chopin, Nocturne, op. 15-2 を例として用いる。

このように語られたとき、楽譜が「規範と実演」という音楽作品相互指示によるネットワークの中心に位置づけられるのではなく、もはや楽譜はその中心から退き、中心のないただの網の目となる。ただ楽譜と各演奏が等価として、その支持関係で結ばれていることになる。
さらに重要なのは、ここにさまざまな編曲などが含みこまれ得るということである。その編曲はどこまで含まれるかは、別の議論が必要となるだろうが、例えば楽譜の音の並びはそのままで、楽譜がしめすリズムとずれていても、それは同一の曲として指示されているであろうが、やはり規範とのズレがあるため編曲の一種といえる。そのとき、こうして演奏された音楽はやはり音楽作品の網目に組み込まれている。ヴィルトゥオーソ的な文脈で、即興的にアレンジされた演奏も似たような形をとるであろう。さらには、ここにはそうしたアレンジを記した楽譜も、もともとの曲を指示するものとして組み込まれ得る。「楽譜が絶対的なオリジナリティを保っている」という命題は疑い得るようになる。
「一つの音楽作品」の外延は、以上のように非常に広いものとなる。それと同様に、「同じ曲」という概念がどこまで及ぶのかも曖昧である。以上のように、ネットワークのように音楽作品を考えるなら、楽譜の中心的規範性を保ったまま議論することも出来るように思われる。例えば、楽譜どうしのネットワークを考えればそれでよく、各楽譜を実演が指示している形としても考えられる。一つの楽譜の中心性は失われつつ、それでも楽譜の規範性は維持されている。可能ならば、仮想的に楽譜を想定することができるだろう。
一つの音楽作品は、それぞれが宇宙のように広がっている。一つの音楽作品の限界を提示することそのものは不可能なのだろうか。
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