2014年2月28日金曜日

芸術作品への「良い」という評価をめぐって


Kennst du das Land, wo die Zitronen blühn,
Im dunkeln Laub die Goldorangen glühn, ...
(Johann Wolfgang von Goethe, Mignon)
知っていますか、あの国を。そこではレモンの花が咲き誇り、
暗い葉の影に隠れて黄金色のオレンジが輝いています……

 美しい風景が描かれている。ここに書かれたことばによって私たちが表象するのは色鮮やかな黄色、深い緑とそれを溶けこませる黒、そしてその黒のうちから燦々と煌めく金色とも形容される橙色。次の詩行を読まずとも、この二行からはすでに穏やかな風が吹き、和やかな緑の豊かな大地が目に映る。実際この詩は次のように続く。
Ein sanfter Wind vom blauen Himmel weht,
Die Myrte still und hoch der Lorbeer steht, ...
穏やかな一脈の風が真青なる天より吹ききたり、
ミルテは静かに座り、月桂樹は高く聳える……

 この詩が表現する思想を、私たちは「良い」と言って評価するだろう。私もこの詩の描く世界が非常に「良い」と思う。ドイツ詩の鑑賞は、必ずしもその詩の思想のみではなく、詩行の韻律を踏まえてその詩の思想をみるものだそうだが、ドイツ語に親しみの薄い私には詩行の韻律から現れる音楽性が 明確ではない。しかし、ドイツ語に慣れ親しんだ人と私との間に、感じる「良さ」の違いがあるのかもしれない。そもそも「良さ」とは一体どういう事態なのだろうか。幾つか「良さ」の特徴をみてみよう。

  1.  ある鑑賞者が「これは「良い」」と評価するとき、それは他者も同様の評価を下しうる。それと同時に、その反対の評価も可能である。一つの作品をめぐり、鑑賞者によって「良さ」の判断が異なっている。
  2. 同じ作品を「良い」と判断する鑑賞者たちの間でも、その「良さ」の強さは異なりうる。上の詩の例で挙げたように、同一の詩を、その思想のみから「良い」と判断する場合と、思想と韻律の調和において「良い」と判断する場合とがあり得る。この両者の間で下される「良い」の判断は異なりうる。これは、「良さ」を言語化する際に現れると考えられる。つまり、前者は「清々しい光景が描かれている」とのみ評価するのに対し、後者は「清々しい光景が Senkung から始まる詩行により穏やかな韻律によって描かれて、それらがうまく調和している」と評価を下すかもしれない。ここで語られる「良さ」は相違していると言いうる。
  3. 同じ鑑賞者が二つの作品に対して、それぞれ違う「良さ」を抱くことがあり得る。すなわち、一人の鑑賞者が「Chopin の Nocturne は op.9-2 よりも op.15-2 のほうが良い」と判断するような場合である。この時、後者のほうが前者よりも「良」く、そのような「良さ」は同一とみなすべきではない。
 以上のように、これでその特徴が尽くされたわけではないだろうが、「良さ」はスケッチされるだろう。 1. の場合は、全く個人の趣味と言ってしまえるだろう。 2. については、これは難しい。全く同じ「良さ」とはいえないが、それでも異なった「良さ」であると言い切ってしまって良いのだろうか、という疑問も残る。これも 1. と同様に個人の趣味の問題へと解消される点を残しているが、けっしてそれだけではない。作品評価と知識の問題や、あるいは 3. と関係して「良さ」の強度の問題とも結びつくだろう。 3. に関しては、さきに述べたように、「良さ」の強さに関する問いが含まれている。作品の評価において順序関係の構造が入ると言っても良い。ただし完全な形で入るのではなく、未決定にとどまるものもある。上の詩の例で、「思想は素晴らしいが、韻律を評価できないので作品全体についても評価を保留する」といった場合が考えられるし、「両作品について、評価を下しはしたものの、どちらがより「良い」ものであったかという判断は下すことができない」といった場合もあり得る。だが一定の評価順序を付けることができるということは、その鑑賞者にとって何らかの評価体系のようなもの(誤解を恐れずに言えば「理論的」な体系)が、非明示的であれ含まれていることを示唆するのではないだろうか。

2014年2月12日水曜日

葡萄酒のこと

 古代ギリシアの物語にほんのすこしだけ触れたのであるが、そこにある葡萄酒は、現在私たちが知っている「ワイン」とは違うものである、というように思われたので、いくつか引用しつつその違いを見ておこうと思う。

 現在私たちが飲むワイン、特に赤ワインはだいたいアルコール度数が 10 度から 15 度ほどで、タンニンなどの渋みもある。ふつうは何かで割ったりすることはなく、そのまま飲まれる。
 こういうワインのイメージをもっていると、ギリシアで飲まれていた葡萄酒がそれといかに異なるか、ということに驚かされる。
それから食事も一緒にとり、葡萄酒に乳をまぜて飲んだりもした。(ロンゴス作、松平千秋訳『ダフニスとクロエー』、 p. 81 )
ロンゴス作の『ダフニスとクロエー』では、しばしば葡萄酒に乳が混ぜられる。しかも、ダフニスとクロエーという少年少女がそれを飲むのである。現代の感覚で言うと、青少年が飲酒をしているようで、こういうところでも葡萄酒に対する感覚も違っている。
水夫たちは、脚速き黒船の索具を結び終えると、なみなみと縁まで酒を満たした混酒器を据え、永遠にいます神々、わけても眼光輝くゼウスの姫君に神酒を献じた(ホメロス作、松平千秋訳『オデュッセウス』、上巻 p. 55)
ここに現れるのは混酒器と呼ばれる道具で、どうやら壺のような形をしていたらしい(参照: http://www.vdgatta.com/note_pottery_crater.html )。『ダフニスとクロエー』でみたように、ギリシアにおいては葡萄酒は何かで割って飲むものであったようである。
… この甘美な赤葡萄酒を飲む折には、彼は一個の盃に酒を満たし、それを二十倍の水で割る。すると混酒器からは、えもいわれぬ甘美な香りが漂い出し、とても飲まずに我慢できるものではない。 (ibid. p. 227) 
この酒は「イスマロスの守護神アポロンの祭祀を務める、エウアンテスの倅マロンからもらった美酒」 (ibid.) で、かなり特殊な酒なようである。上引用文の「二十倍」という部分には註がついており、そこではギリシアの葡萄酒がだいたいどのようなものであったかが語られる。
こう〔二十倍と〕訳してよいかは、些か疑問ではある。原文では盃一杯と水二十メトロンとある。メトロンがどれほどの量か判らないから、二十倍とするのは正確ではないが、いずれにしても異常なほど強い酒であるに違いない。普通の葡萄酒を水で割る時は、酒が二、水が三というのが通例であった。(ibid. p. 362)
  ギリシアの葡萄酒は、普通はそこまでは強くないようである。wikipedia (http://ja.wikipedia.org/wiki/ワイン) によれば、糖分が多く残り、そのぶんアルコール度数が低かったようだ。そのため、葡萄酒というよりはぶどうジュースに近い感覚で飲まれていたという。そういわれると少年少女が牛乳で割った葡萄酒を飲んでいたというのも納得できる。

2013年11月8日金曜日

網目の音楽作品

 以前、規範と実演としての音楽として、音楽作品を規範と実演という二様態に分けて考えた。このとき、規範の側は主に楽譜のようなものを想定していたのだが、大学で渡辺裕先生の芸術学の講義を受けて、楽譜は規範足りうるかどうかについて疑問を持った。さらには、こうした二分法的な考えにおいて、捉え損なわれる音楽作品があるのではないか、ということについて考えた。まずは、先生の講義内容を簡単にまとめ、そののちで考えたことを記そうと思う。

 その講義においては、おもに編曲という観点が中心となっていた。つまり、編曲においては何かあるオリジナル作品が存在して、そこからの一種のコピーないしは別の作品としての創作として捉えられがちであるが、そうした原曲と編曲の境界線のようなものが明確に引く事が出来るのかどうか、ということが問題とされた。
 そもそも楽譜は、明確に演奏法を定めたものであるかどうかすら疑わしいという。その際に Chopin, Nocturne, op. 15-2 を例として用いる。
 一つ目の図にあらわれる、 2 小節目の右手の 16 分音符のフレーズは、似たような形で、しかし少しリズムを変えながら再び 49 小節目、すなわち二つ目の図のように現れる。この二つのフレーズは、二回目だからリズムを変えた、というのも考えうるが、実際の演奏はその都度適宜リズムが変えられ、たまたま記譜されたリズムがこの形だったとも考えられる、ということである。すなわち楽譜は、それが明確な規範としてあるのではなく、あくまでも演奏に際してどのように音が並べられていたかを示すもの(もっと強く言えば演奏の一例)でしか無いとさえ言える。
 このように語られたとき、楽譜が「規範と実演」という音楽作品相互指示によるネットワークの中心に位置づけられるのではなく、もはや楽譜はその中心から退き、中心のないただの網の目となる。ただ楽譜と各演奏が等価として、その支持関係で結ばれていることになる。
 さらに重要なのは、ここにさまざまな編曲などが含みこまれ得るということである。その編曲はどこまで含まれるかは、別の議論が必要となるだろうが、例えば楽譜の音の並びはそのままで、楽譜がしめすリズムとずれていても、それは同一の曲として指示されているであろうが、やはり規範とのズレがあるため編曲の一種といえる。そのとき、こうして演奏された音楽はやはり音楽作品の網目に組み込まれている。ヴィルトゥオーソ的な文脈で、即興的にアレンジされた演奏も似たような形をとるであろう。さらには、ここにはそうしたアレンジを記した楽譜も、もともとの曲を指示するものとして組み込まれ得る。「楽譜が絶対的なオリジナリティを保っている」という命題は疑い得るようになる。

 「一つの音楽作品」の外延は、以上のように非常に広いものとなる。それと同様に、「同じ曲」という概念がどこまで及ぶのかも曖昧である。以上のように、ネットワークのように音楽作品を考えるなら、楽譜の中心的規範性を保ったまま議論することも出来るように思われる。例えば、楽譜どうしのネットワークを考えればそれでよく、各楽譜を実演が指示している形としても考えられる。一つの楽譜の中心性は失われつつ、それでも楽譜の規範性は維持されている。可能ならば、仮想的に楽譜を想定することができるだろう。

 一つの音楽作品は、それぞれが宇宙のように広がっている。一つの音楽作品の限界を提示することそのものは不可能なのだろうか。

2013年11月5日火曜日

解釈の余白について

 先日、まどか☆マギカの映画を観た際にも思ったことであるが、私たちはある表現された対象に対して、そこに複数の意味を見出すことができる。映画においてそのような視点が可能であるのに対し、ではほかの芸術についてはどうか、と考えた。こうしたことについて考えたことをひと通りまとめて記そうと思う。

 同じ記号について、それがコンテクストを理想的に備えていない限り、その記号は、それを認識する複数の主体にとってそれぞれ意味が異なりうる。それと似たことで、記号の複合的なあり方、例えば音楽や会話において、我々は多様な受け取り方が可能となる。その解釈における多義性を、「余白」と呼ぶこととする。
 例えば、日本人は発話において、伝えたい内容を全て言い切ることはしない、とよく言われる。それに対し、欧米人は明確に相手に伝えようとする。これも解釈の余白の問題であると考えられる。日本人の発話は欧米人のそれに比べて解釈の余白が広いと言える。あるいは、三味線の古い楽譜においては、音の長さは記されていなかったという。それに対し、五線譜は音の高さや長さなどを規定しているぶん、日本のものよりも解釈の余白が狭いといえるかもしれない。

 音楽においては、音の配置や音の強さ、あるいは柔らかいとか鋭いとかいったような音の性質をもって、私たちは悲しみが表現されているとか、楽しい感じの曲であるとか言ったりすることが出来る。これもまた解釈の余白の問題といえるかもしれない。音楽において、「何を表現しているか」ということを一意に伝えることはまず不可能である。そうしたことが可能であるならば、音楽はすでに暗号と化していると言える。「何を表現しているか」を一意に伝えることは出来なくても、その表現しようとしていることを中心とした(あるいはもう少し弱い条件で、表現しようとしていることを内に含んだ)ある領域を表すことは出来る。単調で激しければ我々は怒りを想像するだろうし、長調で穏やかであれば何か楽園のようなものを見出すだろう。そうした音楽において制限されたあり方は、言ってみればキャンバスの一部だけが白く、まだ完成していない絵画のようなものであろう。私たちは、絵画のうち描かれていない部分を、多様に、しかし絵全体によってある程度の制限をうけた想像によって補うことができる。ただし、上の例で理解するにおいて注意すべきことは、私たちが聴取することによって音楽作品ははじめて完成するというわけではない(もちろんそうした見方も可能であろう)。また、そういうからと言って、音楽芸術は、音楽作品の完成したかたちがそのように余白があるという意味で絵画芸術に劣るというわけでもない。絵画においても、同様の余白はあるものの、それが(視覚という認識能力の性質によるのだろうか)比較的小さいということである。
 映画鑑賞は、絵画芸術と同様に視覚的な芸術であろうが、解釈の余白は非常に大きいと思われる。映画においては、物語の進行を記す部分(主にスクリーン上で人間が映る部分)の他に背景となる部分が大きい。背景は、言ってしまえば何でもいいのだが、物語が進むにおいてふさわしい背景が選ばれているはずである。そうすると、私たちは物語の進行以外に、背景に視線を写して、そうした物語の進行を示唆するような何かを探すことも出来る。そのとき、物語の進行の外に意味が幾重にも重ねられる。そのように、映画においては背景となる映像がそのまま余白になり得る。
 しかし、このままでは、意図して描かれているものと意図されずして示唆するものとは一切区別がつかない。意図して描かれたところが解釈の余白となるとは考えづらい。もちろん、「意図というものは、作品が作者の手から放たれた瞬間に一切考えられなくなる」と考えて、あらゆる背景を余白とすることもできる。しかしこのとき、音楽において、「およそこのように聴取されるであろう」(あるいは「ここは怒りとして聴取されるべきである」といった強い意図もありうるだろう)という意図のもとで表現された部分も、「おおよそそのように聴取されるべきである」という「常識」から逸脱して解釈が可能になるだろう。
 この問題は、芸術における作者の意図に纏わる問題と近づけて考えることが出来るだろう。

2013年11月3日日曜日

救済なき物語

 劇場版 魔法少女まどか☆マギカ 叛逆の物語を観た。テレビ版の放映からずっと好きな作品が完結してしまったので、私の中の物語がまた一つそこで止まってしまった。観た感想めいたものと、それをみて考えたことを、粗雑なことではあるがかんたんに記しておこうと思う。映画や小説などの作品に対して、外的なものを持ち込んでその作品をよく理解し、批評しようという立場はあまり私の好みではないので(もちろんそうした立場を否定するわけではない)、内容にはあまり深く踏み込まずに、映画を観た私の側で現れたことについて書こうと思う。いわゆるネタバレはあまり多くはないと思うが、感想にはもちろん内容もある程度含まれることになると思うので、注意していただきたい。

 まずは軽く映画を振り返ってみようと思う。
 私は映画をあまり観ないのだが、こうしてたまに観るたびに驚く。映像の細やかな動き、それに合わせた効果音、更には背景で流れる音楽。これらが一つになる素晴らしさを感じる。そして物語の世界がそこで一つ完結する。観るたびに思うことではあるが、やはりなかなか映画を観るようにはならない。
 作品についてであるが、最初の数分は少し戸惑った。というのも、アニメ版第一話の映像から始まるのだが、まどかをはじめ、他の魔法少女の指にはめられた指輪が強調される。そうした点において、映画の前編二作において構築された世界との繋がりが見えにくいからだ。
 音楽については三拍子のものが多く(印象に残ったものが三拍子だったためであるが、三拍子ではない曲があったのかどうかは把握していない)、映像もそれに合わせてであろうか、ミュージカルや劇のような始まりをしたのが非常に印象的だった。魔法少女への変身においても、音楽とやや眺めの踊りのカットによってそれがなされるのが今までと違ってみえた。変身の最後の一瞬に、それぞれの少女が魔女となる時のモチーフのようなものが現れたのも強く記憶に残っている。
 そうした演劇調の表現が、中盤になってほむらの創りだした世界であることが明らかにされ、物語は終盤へと向かう。映画の最後には、まどかが再構築した世界がさらにほむらによって書き換えられ、アニメ版第一話の学校のシーンが、微妙に違う形で、繰り返される。第一話に描かれた場面で、映画の幕も閉じられることになる。

 映画は素晴らしかった。映像やらのどこがすごいなどのような褒め方は出来ないので、いくつか気になったことを挙げることにおいて感想を述べたこととしよう。
 物語が幾重にも重なっていた。例えば、この作品も、前編一作目のようにアニメ版第一話の情景から始まり、アニメ版第一話の情景で終わる。ほむらの魔法のように、幾度と無く同じ時間を私たちが体験していることになる。その描き方が面白いと思った(そういう描き方は個人的に好みである)。さらに、円を象徴させることがらが非常に多く、物語全体をそのモチーフで貫いているあり方が気持よかった。例えば、円のモチーフや「円環の理」という言葉、第一話の映像で始まり、第一話の映像で終わるという一種の円構造など(あとは、ただのこじつけであるが、作中の音楽でワルツ(円舞曲)が流れていたのも面白いと思った。)。

 この作品を通して、まどかとほむらが決して同時に救われることのない世界が描かれていた。それどころか、まどかもほむらも、ほむらが世界を幾度繰り返しても、救われることは無かったのではないだろうか。いったい誰が救済されたのだろうか。
 私たちは物語のうちで決して救われることはない。私たちは、物語の終了とともにその世界から追い出され、いくら望んでも、それからの続きを知ることは出来ない。物語の終わりは、私たちが一時的に組み入れられた世界の終焉であり、すなわち私たちの、「物語の世界にいる」というあり方が全てその物語に対して閉ざされてしまう。私たちは、物語を繰り返すことでしか、その世界の中にあり得ず、物語の終焉とともにその外へと追い出される。物語のうちで運命を持たない私たちは、そもそも救済の対象とはなりえない。しかし、救済されるのは、そもそも私たちの視点でなければありえない。というのも、映画の全体を通して、すべての人物の交流をすべて見て、そのうえで物語の最後に置かれた誰かの運命が浄化されるのをみて、私たちが救済されたと思うのだ。救いは物語中で誰かに与えられるかもしれないが、その救いを感じることが出来るのは、救われた誰かではなく、常に俯瞰する私たちでしか無い。
 終わりの全てがよくなければ終わりはよくない。全て良くなければ、決して終わりは良くなることはない。登場人物を取り巻く世界が救われない限りは、俯瞰する私たちも決して救われることはない。そういう意味でまどか☆マギカは、誰ひとりとして、それはわたしたちを含んだうえで、決して救済のない物語であったと思った。

2013年10月22日火曜日

音楽理論と鳥の声

彼[スティーヴン・フェルド]は、パプアニューギニアのカルリの人々が、旋律を滝で、旋律の終わる音(終止音)を滝壺で表していることに気がついてから、「見えない理論」がここでもきわめて精緻な形で存在していて、人々が滝や木の幹や枝、あるいは、鳥の声などを使って音楽理論について語り合っていることを知るようになったのである。(徳丸吉彦、蒲生郷昭「見えない理論−−音楽の理論・楽器・身体」、括弧[]は筆者による補足。)
  ここで語られている「見えない理論」とは、例えば和声学や対位法のような理論を含む、文字によって記されているような「見える音楽理論」に対し、無文字文化などでの音楽教育において、下手な演奏をしたり、(その文化において)「変な音」を使った演奏をしたりすると、教師からその都度、「時には言語によって、また、時には、睨んだり、怒ったり、ぶったり、という非言語的な手段」によって、「正しい音楽」へと是正されることによって表現されるような音楽理論である。そうした理論はまったく述べられることがなかったり、あるいは独自の用語で構成されていたりするのではない。まさに「鳥の声」のような、ごく一般的な言葉によって語られたりする。
 言葉というのは面白いもので、私たちの文化にあっても、鳥は歌う。まさに音楽ということがらを通じて、私たちは知らない文化の人々と考えを同じくする。ここになんとなく面白さを感じた。
目を醒ませ、フリードリーケよ
夜を追い払い、
おまえの瞳の輝きは、
朝へと変えてゆく
鳥たちの甘やかなささやきは
愛しき人よ、おまえを呼んでいる ...

 鳥と音楽の繋がりというのは、想像以上に深いものなのかもしれない。鳥は実際に「歌い」、そして私たちによって歌われる。音楽を離れて、詩の世界に至っても、鳥の一声は詩的世界に一つの音楽的情景を与える。しかし、私たちが鳥の声を「音楽」というとき、そこには私たちがほとんど意識しないまでに入り込んだ比喩があるのだろう。私たちはそのままの意味で、鳥の声を「音楽」だとは思っていないだろうし、思うことができないはずだ。とはいえ、これもはじめに引用した論文によれば、あるいは、私たちが鳥の「歌」に秘められた「見えない理論」に精通していないことによるのかもしれない。

 論文は、徳丸吉彦『音楽とはなにか −− 理論と現場の間から』(2008, 岩波書店)より。詩は Johann Wolfgang von Goethe, "Erwache, Friedrike" より引用。筆者による拙い訳で申し訳ありません。

2013年10月14日月曜日

感情および情念に関して、思うところ

 さいきんは音楽哲学的な話題が多かったので、一度もともとの関心に振り返ってみようと思う。その対象は「感情」と呼ばれているものである。そもそも、私は感情の外延を記述するのに、一般に感情によって作られ得ると考えることのできそうな芸術に目を向け、そこからさらに振り返って感情を考えることができないものか、と思い芸術、とくに音楽について考えてみようと思ったのではあるが。

 いわゆる「感情」や「情念」というものに関してであるが、はたしてそれらは一体どこからどこまでがそう呼ばれるものなのだろうか。「悲しい」は情念であると言われても、およそ誰も疑うことはないであろうが、「つらい」や「痛い」は情念に含まれるのか、およそ生起する形容詞的なものは情念に含まれうるのだろうか、等々の疑問は生まれて止むことはない。感情の外延や内包を正しく定めることも一つの大きな問題となるのである。以下では情念の諸性質を見てみることにする。
 情念はかならず言語化されている。私たちが情念を捉える時、かならずそれは言葉によって記述される形であらわれる。逆に、言語化されていないものは情念とはいえない(私は言語化以前のものを感情として区別している)。言語化されている以上、情念は有限の種類しかなさそうに思われる。通常使われ得る情念語彙は、私たちの日常生活における語彙の集合より大きい集合となることは考えづらく、日常生活における語彙も有限であることからもそれが言える。これに関して、デカルトは『情念論』において、情念を全て数え上げていると言明していることなどからも、(権威主義的ではあるが)証明されていると考えられよう。

 さて、情念についてすこし詳しく見ていくことにしよう。上では、情念は言語化されていると述べられたが、情念は「感情が言語によって表現されたもの」として一応の定義付けができるだろう。私達はふだん、「なんとも言いがたい情念」と呼ばれるものを抱くことがある。これは確かに「なんとも言いがたい」という形をもって表現されたものであるから情念であるが、たほうそれは情念以前のものでもある。それは完全に輪郭付けられていない情念であって、うまく情念語彙と対応付けられていない。情念でありながら、完全な情念ではなく、欠落した情念である。こうした欠落が起こりうるのは、情念が情念それ自身として心的実在であるからではなく、なんらかの基礎をもつ、表現であるからであろう。その基礎が感情であって、それは言語的規定を一切欠いている。すなわち、あえて循環的な定義をするならば、「感情とは、言語による表現が与えられることによって情念化する以前の、生の素材である」。
 何らかの外的原因によって感情は、私たちの言語の光が届かない海底のうちで生まれ、やがてその発生の衝撃が波を作り、海面において情念として把握されるに至る。比喩を用いればこのようになるであろうが、およそそうした次第である。この比喩における波が、感情から情念への写像のようなものであり、同時に私たちの認識能力であるといえる。
 感情から情念に至るには、感情が「何であるか」を知る必要がある。感情は言語的規定を欠いているので、それが「何であるか」を明示的に知りうることは不可能である。たほう感情は私たちの心のうちで、なんらかの仕方で私たちの思考や行動に影響を及ぼす。主題的な形で私たちに影響を及ぼすのではなく、私たちにおいても知らず知らずのうちに、根本において感情を暗黙のうちで了解している。その暗黙の了解の様式が、私たちに情念として知られるのである。輪郭付けられていない情念は、その様式が混乱した形で、あるいは複数の様式が入り乱れている場合に現れうるのではないだろうか。

 感情から情念に至る際に混乱があるのは、なにも認識能力の波が途中の障害物に邪魔されて乱されることばかりに原因があるのではないかもしれない。感情から情念への対応が必ずしも一対一では無い、ということがその原因ではないと私は考える。感情を連続的な点の集合として考え、情念を場のようなものだと考える。つまり、近接した感情は同一の、あるは近接した情念として与えられる。色のグラデーションが与えられた実数の平面のように考えれば良いかもしれない。その際に、情念と情念の間、例えば赤と黄色の間にあるオレンジの部分、そこに私たちの感情が落ち込んだ時、混乱が生じて輪郭を失った情念が現れるのではないだろうか。