2013年6月23日日曜日

分類と私たちの思考

 私たちは何かへの理解を深めるために、それがどういうあり方をしているか、という性質をさまざま調べあげて、どのように分類されるかということを考えることがある。そうした考え方というのはどれほど有益なのだろうか、ということが最近私がぼんやり考えていることだ。
 たとえば、砂糖というのは甘いという性質と白いという性質を持っている。そうして、砂糖に対して「甘く」て「白い」という述語付けを行うことが出来る。しかし、少し考えればわかるように、砂糖は甘くて白いだけではない。砂糖は水によく溶けるし、火にかければ溶ける等々の性質を秘めている。私たちが対象に対して述語付けをするうちには、砂糖は完全に捉えきれていない。もしかしたら、私たちにとって未知なる述語を秘めているかもしれない。
 砂糖に関してすべてを知ることができなくても日常生活にはなんら問題はないが、私たちが何かを哲学的に語ろうとした時、その取りこぼされてしまったことがらを無視することはけっして許されないのではないだろうか。
 今は砂糖という例をあげたが、私たちの認識においてはどうだろうか。私たちの認識は、一般に主観と客観によって構成されていると考えられる。だが、この主観と客観によってすべてが言い尽くされているのだろうか。これらの概念によって汲み取られていないことはないのだろうか。物自体に想いを馳せるような疑問ではあるが、すこし考えてみようと思う。

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