2013年7月1日月曜日

一年前の夏

 昨年の夏の真っ盛り、綺麗な青空だったのをよく覚えているけれど、その日私は童心にかえったかのように自転車を乗り回した。目的も何もなかったのだけれど、四時間ほど大きな円を地図の上に描いてあちこち走り回った。
 行ったことのない町の、見たことの無いスーパーに入るのが好きで、いろいろ品物を見て回っては何も買わずに帰る。そういうのを二、三回繰り返した。
 あの日はほんとうによく覚えている。朝顔も綺麗に咲いていたし、通った道もほとんど思い起こせる。住宅街に紛れたり、きれいに舗装された川沿いを走ってみたり。途中で工事に出会ったり、通った道に再会したり……。

 あの日がとても素敵だったことは、今でもよく感じられる。では、こうした体験がなぜ私にとって素敵に感じられるのだろうか。経験に対して、なぜ美的な感覚を抱くのだろうか。
 いま一つ考えられるのは、こうした一連の出来事が、日常とは一切文脈を共有していないということだろうか。つまり、その「非日常」的なありかたである。私はあまり休みの日に外出する人間ではないので、そうやって自転車であたりを走り回るという経験はめったにしない。しかし、ここで「日常」とは一体どういうことなのだろうか、という疑問も浮かぶ。私の生活は、毎日が微妙に異なっている。それをすべて一つの日常として束ねることが出来るのは、一体何によってなのだろうか。

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